今日、北海道の実家から、飛行機で東京に戻ってきました。

そして、何の因果なのか、帰りの飛行機ではちょうど非常口の真横の席を予約していました。(予約したときに、ここしか窓側が空いていなかったため)

今日のフライトは、きっと間違いなく、どこかしら緊張感があるもんだと思って、普段とどう違うのか、それをちゃんと味わおうと思って飛行機に意気揚々と乗り込んでみたのですが、こちらが拍子抜けするほど、まったく緊張感はなかったです。

むしろ、なんならいつも以上にリラックスをしていて、 CAのみなさんは何事もなかったかのような振る舞い、もちろん、非常口のお手伝いの説明も機内アナウンスにおいても、先の事故に触れるような内容はひとつもない。

強いて言えば、「あけましておめでとうございます」の言葉がなかった(少なかった)ように思います。(ここは定かではない)

で、そんなCAさんたちの立ち振る舞いとは裏腹に、僕の隣にいたひとが一生懸命に、安全のしおりを読んでいたことや、乗客みんなが顔を上げて安全のビデオを真剣に観ていたことが、なんだかとても印象的でした。

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で、僕は、このCAさんたちの立ち振る舞いに、今日とても驚きました。

世間では、緊急脱出時の対応が日々の訓練の賜物のように語られているけれども、それと同じかそれ以上に、こちらのほうも日々の訓練の賜物だなあと思ったんですよね。

ある種の緊張感を期待していた自分が本当にバカみたいだったなあと。相手は、僕の思考なんかを何枚も上回る、完全なるプロ集団でした。

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ここで話は少しそれますが、この年末年始はひとり静かにデール・カーネギーの2大名著『道は開ける』と『人を動かす』を、2冊両方ともすべてオーディオブックで聴き返しました。

もう過去に、紙でも電子書籍でもオーディオブックでも何回読んだかわからない本でして、きっと1年に1回以上のペースで聴いているため、軽く10回は超えているかと思います。

ただ、今年は、昨年までと全くその読後感が異なったんですよね。

昨年までは、「知識」の確認として何度も何度も繰り返し聴いていた気がします。

忘れていた知識を再度鮮明に思い出すかのように、です。それはちょうど、間違った試験問題を答えを見ながら解くような感覚に近かったと思います。

でも、今年はなんだかいつもと違って、「実践」に重きを置きながら、聴いていた自分がいました。

1年の行動を振り返りながら、自らの行動を添削をするような気分で、そして、今2024年は二度と同じ過ちを繰り返さないという覚悟のもと、新たな自らの実践への準備として、です。

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この点、昨年は誰もが納得するAI元年を経てから、内容や知識を知っていても、それだけでは何の意味もないんだということが、明白の事実となりました。

むしろ、それをいかに実生活の中で、実践し続けられるのかほうが圧倒的に重要になってきた。

そして、淡々とそんな実践と実験を繰り返しながら、ある種プラグマティズム的に、自らの身体性、そこで得られた学びをひとつひとつ自らに落とし込み、型と呼べるぐらいまでに、徹底した所作を昇華させることができるかどうかが何よりも重要だなあと。

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そのときに大事になるのは、繰り返でしあって「単純作業」と呼ばれてしまいそうな愚直な訓練に尽きるんだろうな、と。

身体性に落とし込むというのは、きっとそういうことなんじゃないか。

で、ここで、冒頭の飛行機事故の話とつながってくるのですが、CAさんたちのスタンスを見ていて、なんだか個人的にはものすごくそのモデルケースを見ているような気分となったんですよね。

つまり、緊張感を伴った状態で意識を集中し、マニュアル通りカンペキにこなせるようでは、まだまだ道半ばに過ぎない。

緊迫感があるときこそ一番の平常心、そしてリラックス感を率先して演出できること。それこそが理想的な状態なんだろうなあと。

そして、これこそがAI時代に人間に残された唯一の「人間独自の道」なんじゃないかとさえ思うのです。

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生成系AIが登場して以来、「達人の大局観」のような視座が、これからは重要になってくるという話は、本当にいたるところで語られているけれども、それっていうのは、結局のところ、ロジックでの思考を超えた先にあるものなんですよね。

何を知っているかではなく、どんな状況下においても、身体性を通して、無意識に体現できることのほうが圧倒的に重要だというわけです。

非常時や、運命を分けるような決断を迫られるような場合において、数限りない選択肢の中から直感的に一番最善の選択肢を選び取れること。

それというのはきっと、回路と回路を、ロジックや知識を飛び越えて繋いでくれるものと言い換えても良いのかもしれません。

それこそが「達人の大局観」だし、そのときに必ず必要になるのは身体性を伴った徹底した繰り返しの訓練なんだろうなあと。

型通りのことを何度も何度も繰り返した先に、一瞬だけ宿るものなんだと思います。今回のJALの飛行機事故が、まさにそうだったようにです。

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で、AIには存在せず、人間だけの個性や無限の可能性というのは、むしろこっちなんじゃないかって思いました。

正直、今日の今日まで、飛行機に乗るたびに僕は、CAさんが型通りのことばかりをやっている姿を観ながら、遅かれ早かれ必ずAIを搭載したロボットに奪われてしまう職業、その筆頭だと思っていました。

でも、今日飛行機に実際に乗ってみて確信したことは、まったくそんなことはなくて、むしろ最後の最後まで残るのが、CAさんなのではないかとさえ感じたんですよね。

退屈なほどの「型通り」だからこそ、「CA道」みたいなものがそこには間違いなくあるなあと思います。

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この点、これから世の中では、AIとロボットがこれからありとあらゆる知識とロジックを用いて、効率化してくれるようになるわけだから、もう単純作業のように見えてしまう、そんな型を覚え込む行為なんて、不要だいうふうに世間一般的には語られています。

「それよりも、もっとクリエイティブだ!なんならヒューマン”エラー”こそが、人間に残された最後の創造の源泉だ!」みたいな話なんかも、本当によく耳にします。

でも、繰り返しますが、実際にはそうじゃないのかもしれないのかもしれないなあと。

むしろ、何度も型どおりに行って、それを知識ではなく身体性に落とし込んでいるからこそ、回路と回路を飛び越えて、一瞬で飛躍したロジックをつなぐことができるようになる。

そんな達人や職人の域に達したときに、ひとは針の穴に糸を通すようなことでさえも、いとも簡単にやってのけてしまうのでしょう。

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さて、ここまでの話を通して「習慣や訓練が大切だ、決して派手なことや変化球的なことをすれば良いわけではない」という凡庸な結論にたどり着いたと思われてしまっているかもしれません。

しかし、いま一方で同時に強く感じているのは、先日の能登の大地震の自粛ムードを払拭するための、「淡々とした日常をおくりましょう」みたいな世間の圧力みたいなものも、僕にはかなり強い違和感がある。

それは、人から言われて空気に流されていっているだけであって、今日の話とは似て非なるものだと感じています。

今日の話というのは、そういうことじゃない。

型を身につけるというのは、知識を得て、集中した状態で実行できることではなく、自分で考えて、日々それを実践し、反省し、頭ではなく身体で獲得して、集中していない状態でも難なく行えるようにするということです。

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この点、僕は、先の大地震後、まだ自らが平常運転をすることはしていません。あえて寄付行為なんかも行っていない。

寄付を急いでしまうことは、自らのモヤモヤを断ち切る行為だと自分の場合は強く思うからです。

世間がとても騒がしく、それにつられて自分もソワソワと落ち着かないから、そのソワソワをどうにかしてを早く断ち切りたいと願ってしまい、その断ち切る行為が、募金や当たり前としての日常を淡々と送ろうと決意することなんだと思います。

でも、僕はまだ、そのモヤモヤを保有し続けることのほうが大切だと自分の中では強く感じている。(あくまで僕は、です。他人には他人のタイミングがある)

もし自分が寄付をするとしても、寄付するタイミングはあと1ヶ月遅くても何の問題もないはず。

むしろ、過去の様々な地震の報道から、長い感心を寄せ続けることのほうが、意外と重要だったりもするなと感じていますし、モヤモヤを断ち切らないほうが「なんでだろう?」と、自らのおさまらない気持ちを、淡々と観察し続けられるような気もしています。

そうじゃないと、今日のようなブログの内容にも、きっと到達できなかったはずなのです。

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最後に、今日の話は、たまたま2024年に入ってすぐ起きた大きな2つの事件から、僕が、いま実直に感じ取ったことです。

そして、まさか新年早々、こんなブログを書くことになるなんて、昨年末にはまったく思ってもみませんでした。

きっと今年は、これぐらい予想もしなかったようなことがドンドンと起こっていくはず。それはもちろん良いことも含めて、全部です。

そのときに、くれぐれも世間の空気にだけには流されないようにしたい。

自らで問い、必死に考えて、かつ自身の身体性や訓練、その習慣から導かれるような、身体の「大局観」に従って生きていきたい。

それが僕の今年の抱負でもあります。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。