昨年末にもこの場で少しご紹介したけれど、宇野重規さんの新刊『実験の民主主義-トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』という本が、この年末年始に読んだ本の中でも群を抜いて本当におもしろかったです。
これはそのまま、現代のコミュニティ論でもあって何かしらのコミュニティを運営するひとにとっては、これは必読の書だと思います。
そして、この本の中に、まさに僕が今年このWasei Salonを通して実現したいこと、その行動指針のようなものも書かれてありました。
それが、タイトルにもある通り、本書のプラグマティズムに関する言及の部分なんです。
ちなみ、一般的にはプラグマティズムとは、知識が真理かどうかは生活上の実践に利益があるかないかで決定されるとする、実用主義を言います。
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とはいえ、その解釈ともまた違う本書におけるプラグマティズム的な思考とは、一体どのようなことなのか。
早速、本書から関連する箇所を少し長いですが引用してみたいと思います。
プラグマティズムは、人が何かを「信じようとする権利」を最大限に擁護することを、思想の基盤に置きました。彼らがユニークだったのは、人が何を信じようが構わないし、それが「真理」であるかどうかも必ずしも重視しない立場を取ったことです。その考え方の背後にあったのは、何が真理であるかを最終的に証明することは不可能であるという考えです。人は何らかの行動をするにあたって、自分の信念が正しいかどうかを論証する前に、決断し行動しなくてはならないと考えました。
彼らは、人間は考えがあるから行動するのではなく、行動する必要があるから考えを持つ、と考えたのです。そしてその行動によって得られた結果をもって、さしあたり、その理念が正しかったかどうかを検証することができるとしたのです。ここで重要なのは、彼らは信念を、個人的なものでも、内面的なものでもないと考えていたことです。プラグマティストは、それを社会的なものだと考えたのです。そして信念が個々人の間で共有され社会化していくための媒介として「経験」や「習慣」を重視しました。人々が多様な「経験」をして、それが繰り返されることで「習慣」が形成されます。その「習慣」はやがて一つの規範に収斂していく。逆に言えば、社会が更新されていくためには、新しい習慣が作り出される必要があるということです。
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こうやって聞いてみると、思想同士が対立し泥沼のような状態の現代において、なんだか非常に良いアプローチのように思えてきます。そして、まさにこの経験や習慣が、本書のタイトルでもある「実験」につながっていく概念でもあります。
でも、現代ではこのような「経験」や「習慣」に重きを置くような、つまりトライアンドエラーのような思想というのは、あまり流行らない。
それは一体なぜなのか。著者の宇野さんは、現代が高齢化社会だからだと言います。
再び本書から少しだけ引用してみたいと思います。
いま「トライ&エラー」という言葉が日本で流行らないのは、日本社会の高齢化が進み、ここで失敗したら終わるという感覚があるのでしょう。若ければ「長い目で見ればいつか取り返しがつくよ」と思えますが、社会全体が高齢化してくると、「ここで失敗したらアウトだ。二度と取り戻せない」となる。そういう社会でプラグマティズムを語ると「そんな 博打、誰がやれるか」という話になりかねないですが、「実験」を通して学び続けるプロセスと考えれば、「結果」に囚われずに済むようになりますね。
国家における大多数の国民の立場において「未来はあまり長くない」ということになると、「トライアンドエラー」を拒むのは仕方のないことだと思います。これは個々人の思想の良し悪しの問題ではなく、人間の認知や構造的な問題でもあるのだと思います。
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でも、そうなってくると、社会は過去の良かったことの「繰り返し」になってしまうに決まっている。
自分の過ぎ去った人生の中における、「確かな価値」を再び求めるようになるに決まっています。
これはは完全に余談なのですが、昨年末、紅白歌合戦を観つつ、さらにいくつかの年末特番を観たり、人気ドラマ「ブラッシュアップライフ」を半分ぐらいまで観てみて、昨年末にめちゃくちゃ強く思ったことは、2023年じゃなくて、人生全体を振り返っちゃっているじゃん、ということでした。
年末特番はあくまで「今年を振り返る」という話だったはずのに、いつの間にかその後ろを振り返るついでだと言わんばかりに、「人生全体を振り返っちゃっている」感じがしたんですよね。
若い人たちも、見事にそれに付き合わされていて、ドンドンそこに新世代(平成世代)も一緒巻き込まれている気がする。
紅白において、ポケビやブラピを観たら、あの頃を思い出して当時が思春期だったひとたちは泣くに決まっているし、その懐古主義に、ひとは決して抗えない。今と比較したら、たしかにあの当時のほうが、美しく輝いていたというように思えてしまいますからね。
これはなんというか、全国民総・葬送のフリーレン状態と呼べるような状態であって、年末に、人生すべてを振り返るというこの流れは一体いつまで続くんだろうかと思ってしまいました。
美しい過去を振り返り、それを笑顔で懐かしむことが「人生そのもの」になってしまい、このまま人生そのものが終ってしまいそうだなあと。僕は、絶対にそんなのはイヤだなと感じています。
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さて、また話をもとに戻すと、僕は、自らが運営するこのWasei Salonという小さなコミュニティの中だけでも、プラグマティズム的に「実験」する姿勢を大事にしていきたいと思っています・
なぜなら、大切なのは、トライアンドエラーをコミュニティ内で奨励する姿勢と、それを実践する際の、当事者同士の「距離感」の問題だからです。
再び本書から引用してみたいと思います。
プラグマティズムの思想も、結局のところカギは距離感だと思います。自分でやってみて、その結果が自分で見えて、責任も取る。そのフィードバックをすぐに活かすことも可能です。 プラグマティズムは楽天的な思想だと思われているところがありますが、実際は、答えがわからない時代にどうしたらいいかを考え続ける、非常に懐疑的な哲学です。一人ひとりが実験していくと、社会は必ずいい方向にいくはずだという信念というか信仰のようなものがありますが、そういったものとセットになって懐疑主義を乗り越えていこうという哲学だと捉えると、輝く素地があります。
実際に、このWasei Salonの活動をおいても、本当に強くそう思います。
まずは実験ができる場が必ず必要になってくる。そして、そうすることで、結果的に自分たちの実験や実践を通じて遡行的に本当に大事なものが発見できる。
いま本当に大事なことは、この順序なのだと思います。
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たとえばで、最近よく思うのは、世間で言われているような、議論や熟議も実はまったく必要なくて、なんなら「対話」でさえ必要としないのかもしれないなあと。
ただ、そこに当事者同士の「やり取り」さえあればいいのだと、結構真剣に思っています。
むしろ、そのときに必要なのは、目の前の相手に対する敬意と親切心であって、たとえ誤解や誤読をされたとしても、そこに敬意と親切心が添えられた「やり取り」であれば、、ひとはお互いに信頼感を深めていく。意見や思想が噛み合っていなくても、です。
これもWasei Salonという対話空間をつくり出してみて、そこで各種様々な実験をし、実践してきたからこそ、僕自身も気づけたこと。
この点、僕も最初は熟議や対話が何よりも必要だと当たり前のように思っていました。だから、Twitterやテレビのような場所ではなく、そこから隔てられた最適な状態をつくりたいと願っていた。
でも、実際にはコミュニケーションとしての「やり取り」のほうが本当は重要だったんです。これは逆説的ですが、そうすることによって初めて、対話や熟議も促進されている感覚がものすごくあります。
つまり、まず先に、「べき論」としてイデオロギーがあるわけではなく、まず先に敬意と親切心をもったやり取りがあったからこそ、この仮説にたどり着くことができたということなんですよね。
これはやってみないと絶対に気が付かなかったこと。でも、身体性を伴って、いま強く実感し確信できていることでもあります。この順序が本当に大切だなあと。
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最後に、正直なところ、僕は思想や哲学を勉強し始めた最初のころにはプラグマティズムという思想自体があまり好きではなかった。
なんというか、あまりにも、元も子もないような気がしていたからです。単純にそれ自体が「美しくない」と思ったんですよね。
なぜ、日本の哲学者・西田幾多郎もプラグマティズムを重んじるのか、ものすごく疑問だったんですが、今なら少しだけわかるような気がする。
正しさ同士がぶつかり合い、先行き不透明の時代においては、ここに活路を見出すほかない。議論ばかりをしていても、無駄な血が流れるだけなのです。
逆に言えば、僕らが美しいと感じているもの自体も、過去のこのような先人たちの実験の結果、構築されたものでしかないとも言えそうです。
だとすればプラグマティズム的に、それを次の時代により適したものへと変えていくこともまた、僕らの役目のようにも思うのです。
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ゆえに、今年は「プラグマティズム」的な視点から生まれてくる様々な実験や実践を繰り返し、そしてそこからうまれるコミュニティの構築自体が、本当に大事になってくると思います。
これは、かなり強い確信を持っていま主張できること。
まさに「実験の民主主義」を、僕らも実践していきたい。それが昨日も書いた、身体性の話にもつながってくると信じています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のブログが何かしらの参考となったら幸いです。