NFTに向けられる疑問や一般的な批判として、よく受けるものは「どうしてただの画像であり、それがコピー可能なデジタルデータにも関わらず、こんな高額な値段がつくの?」というものがあります。

最近のNFTは、もはやただの画像データというだけにはとどまらず、さまざまなユーティリティなど実用的な価値も付与されてきているので、「ただの画像じゃないよ」ということも言えないわけでもないのですが、

ただ、もっともっとそもそも論から改めてこの問いについて考えてみると、この論法で批判をしてくる人たちの暗黙の前提として存在している考え方というのは「価値があるから、高値で交換されるようになる」という順序で考えているのだと思うのです。

でも、その大前提自体が、実際はそうじゃないかもしれない可能性が高いのです。

むしろ、実際にはその真逆であり、「頻繁に交換されるようになるから、それには価値があると思われる」という順序のほうがきっと正しいのだと思います。

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この点、よく話題にあがるのは贈与論の中に出てくる「クラ交易」の話です。

文化人類学のような文脈で、非常によく語られる話でもあります。

ザックリと分かりやすく言うと、何の使用価値のない貝殻の装飾品を部族間で交換(交易)されるようになったから、それには価値があると皆が認めるようになったみたいな話です。

じゃあ、なぜそんな「使用価値」のないものを人類は一生懸命交換するようになったのでしょうか。

そこにはさまざまな理由があり、まだ歴史上、判明していない部分も多いと思うので、あまり一概には言えないとは思いますが、僕は思想家・内田樹さんの説明がとてもわかりやすいと思っています。

「今年最後の死のロード」というタイトルの内田樹さんのブログから少し引用してみたいと思います。

私たちが交換を行うのは、そこにゆきかう商品やサービスが「欲しい」からではなく、端的に他者と交換を行いたいからである。

経済活動の根本にあるのは、この「他者とかかわりをもちたい」という欲望である。
私たちは商品が欲しくて交換をするのではない。交換をしたいから交換をするのである。

引用元:今年最後の死のロード - 内田樹の研究室 


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さて、これはみなさんの実体験を通じてみても、非常に納得感のある話ではないでしょうか。

たとえば、幼いころ、道端に落ちている草花や石ころあつめては、それを親兄弟や、同じ年齢ぐらいの子どもたちと無限に交換していた記憶って誰しもが持ち合わせているはずです。

あの、大人からみるとあまりにも無駄で不可解な行為というのは、まさしく他者とコミュニケーションを取りたかったからだと思います。

決して、それ自体が生きる上で必要不可欠な事柄だったわけではない。

「他者と関わりをもちたい、コミュニケーションを持ちたい」というその一心で、僕らは何の価値のないものを交換していたように思います。

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そして、内田樹さんの慧眼はここにとどまりません。

何かを「継続的に交換をする」ためには、僕らはいろいろな「手立て」を講じなければならないのであり、その結果として、「手立て」が整っていること、それ自体が人間が生きてゆく上で死活的に有用になってくるのだと語ります。

少し長いですが、以下で、再度同じブログの記事内から引用してみたいと思います。

シャネルのドレスだって、ヴィトンのバッグだって、カルティエのリングだって、そんなのなくても誰も困らない。でも、それを売り買いするためのインフラストラクチャーは「ないと困る」のである。インフラストラクチャーを整備するために、「その上に載せるもの」を揃えたというだけの話である。

クラ交易がそうであったように、贈与的な経済活動における主目的は「人間的成熟の動機づけ」である。

クラにおいては、「自分の交換のパートナーとなってくれる相手が何人いるか、どのような社会的ポジションにいるか」ということが死活的に重要である。
それは相手にとってもまったく同じことである。
どれだけ多くの他者から「必要」とされ、「信頼」され、彼らと互助的な関係をとりむすぶことができるか。

「交換をめざす」ものは、常にそれを念頭においてふるまわなければならない。
それを近代的な語法で言えば、「市民的成熟」ということになる。
ほんらい、経済活動は「人間を成熟させるため」のシステムであった。
その本義が見失われれば、それはもう厳密な意味での「経済活動」とは呼ばれまい。


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今、NFTに何かしらの形で携わっている方々は、このお話はものすごく自分ごとに感じるはずですし、かなりしっくりくるかと思います。

特にいまは、トライブ(部族)のような概念が頻繁に用いられるようになってきて、それぞれのNFTコレクションに紐づくコミュニティごと・集落ごとの交易のような側面が目立ってきたように思います。

そして、ぼくらは何の使用価値のない「ただの画像」を交換するために、メタマスクやopenseaなどを必死で用いて、その流通網を整え、VoicyやTwitter、Discordなどを使ってその「交換」を行おうとする人々の知識や意識を共有化し、ありとあらゆる交換のための「手立て」を、いま本当に急ピッチですすめていると思います。

じゃあなぜ、そんな面倒くさいことをしているかと言えば、やっぱりNFTをなめらかに交換するため、ですよね。

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もちろんそこにはキャピタルゲインのような金銭的な旨味が得られるという、したたかな動機もあるとは思います。

でも、やっぱりそれも「経済圏を大きくしていこう、この業界に携わる、より多くの人が救われる世界観を目指していこう」という志しと単純なコミュニケーションにおける高揚感があるのだと思います。

そして、いま現段階におけるNFTには、その「交換」の原始的な高揚感がまざまざと体感できる状態にあるわけですよね。

ゆえに、値上がりしたNFTの利確や現金化をしなくても、既に満足感を得られているというふうに語る人は多いのはそれが一番の証拠だと思います。

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経済の語源というのは、もともとは「経世済民」です。

その具体的な意味としては、世の中をよく治めて、人々を苦しみから救うこと。

今僕らがこうやって、様々な手立てを講じて、その流通網のようなものを整えることによって「これも一緒に交換してみたら、より一層相手に喜んでもらえるんじゃないか?」というアイディアみたいなものがドンドン試されるようになるはずです。

その流通網を用いた応用がなされていく。

そうすることで、ここから数年後に、この「手立て」にタダ乗りしてくるひとたちがたくさん現れるわけですよね。

でも、そうすることで、運べるものや体験できることが一気に増えていく。そこまで増えたらあとは、人々が勝手にそれらを拡大させていくフェーズに入っていくでしょう。

ここまで来てしまえば、もう僕らの生活の中においてなくてはならない「手立て」となり、まさに経世済民のための「経済活動」になっていくのだと思うのです。

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つまり、僕らが未来に残せるものっていうのは、その「手立て」そのものなんです。

ぶっちゃけ交換するデータそれ自体はなんでもいいんだと思います。

「これには価値があるんだ」と全員が信じるに値するだけの熱量がこもった“何か”であればいい。

そして、そのコミュニケーションを目一杯楽しむこと。

なめらかな社会の到来を目指して、より多くの人々がそれで救われる社会がやってくるようにと、それぞれが自分なりに創意工夫をこらしていくこと。

それが「市民敵成熟」にもつながると僕は信じています。

だからこそ、こうやって毎日淡々とweb3に関連した自分の日々の発見や学びなんかも発信しているのです。

今日のお話も、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となっていたら幸いです。

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声のブログ、Voicyでも同様のお話をしています。声で聞いてみたいという方は、ぜひ合わせてこちらから聴いてみてください。