「山頂で食べるカップラーメンは、格別においしい」という話は本当によく聞きます。
先日もブラタモリの富士山の回で、タモリさんが山頂でカップラーメンを食べているシーンが再放送されていて、本当にとてもおいしそうにカップラーメンを食べていました。
でも、山登りをしない人間、地上にいる人間からすれば、その感覚はイマイチよくわからない。
それぐらい、置かれている環境と、前後の身体の変化、さらにそこに連なる「物語」によって、人間の主観的価値観は、大きく左右されるということの証でもあるのだろうなあと思うのです。
で、この話って単純なようでいて地味に結構示唆深い話だなと思います。
単純にその食べ物自体の問題ではなく、登山という肉体的負荷、山頂という特別な環境、そして「頂上に到達した」という物語、そのすべて組み合わさった結果でもあるということですよね。
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これは、似たような文脈で言うと、ガテン系の肉体労働したあとには、食べたいものが全く異なるという話にも似ている。
先日も、お昼どきに街を歩いていたら、工事現場の方々の昼休憩の前を偶然通りがかり、こちらでも、ものすごく美味しそうにカップラーメン食べていた。
「あっ、これも山頂のカップラーメンだ!」って思いました。
そして、その足元にあるのは、これまた味がものすごく濃そうなソースたっぷりのガッツリとした菓子パンと、たっぷりのあんこが乗っかったお団子の詰め合わせが置かれてある。
「ええっ!全部炭水化物やん!食べ終わったあとの血糖値スパイクによる眠気がヤバそう!」ってデスクワーク中心の自分は、単純に度肝を抜かれてしまいます。
でもそれが、きっと屋外での肉体労働、その昼休みに食べる場合には、めちゃくちゃおいしいのだろうと思うし、それぐらいガッツリ食べないと、むしろ身体が追いつかないということでもあるのだと思います。
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これと、全く同じ構造において、現代のいわゆるな「ホワイトカラーの労働」、その「精神疲労」したあとにズバンとハマる体験や、「旨さ」はぜんぜん違うんだろうなと思うんです。
そして、連日書いている「推し活」も、まさにソレなんだろうなと思いました。
山登りをした人が、山頂で食べるカップラーメン、肉体労働をしたあとの塩辛い食べ物など、一般的にはジャンクな食べ物と分類されるものが、特定の場面では異様に旨い。
推し活にハマる彼女たちが置かれている日々の労働環境の文脈の中における「推し活」はも、そういう意味で「異様に旨い」ものであり、それは間違いないんだろうなあと。
そして、この山頂のカップラーメンのような”旨さ”を、私たちから奪わないでくれ!ってことなんだとも思いました。
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推し活の延長で「カウチポテト」とかもそう思います。
僕が見聞きする限り、彼ら・彼女らは「カウチポテト」が好きだと言いながら、文字通りのカウチでも、ポテトでもなく、そこで観るショート動画の刺激に癒やされている。
で、それだけ見ると、全く不合理にも思えるわけです。
そして実際に僕は、カウチポテト的な状況が苦手で、その話をすると、すぐにストイックだとかマウントだとか、そういう話に回収されてしまいがちだなと思っています。
だから、もはや最近は「カウチポテト」を否定さえもしないけれど、でも僕はストイックになっているつもりもなく、「だって。それが一番どっと疲れるやん…!」と思っているんですよね。
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その瞬間は良くても、その後を想像しただけで、ゾッとする。
血糖値スパイクの話と同様です。「飲んだあとを想像すると恐怖だから、レッドブルを飲めない」みたいな話にも似ていて、こちらからすると、その苦しさに耐えられるひとのほうがすごいと感じている。
でもそれっていうのは、そのひとの日中に置かれている環境との相性が、きっと大きな影響を及ぼしていて、客観的な状況だけでは決してその良し悪しは判断できないんだと思うようになりました。
むしろ、その体験があるからこそ、次の日の仕事が頑張れる!という状態でもあって、ものすごく大事な「栄養素」でもあるんだと思うんですよね。
でも現代社会というのは、「カップラーメン」そのものとか、「推し活」そのものとか「カウチポテト」そのものとか、各個別性においての有用性(コスパタイパ、生産性)だけを、やり玉に上げて議論しがちだなと思います。
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で、ここで少し話はそれますが、コロナ後にも語られるエッセンシャルワークの薄給問題についてよく思うことがあります。
それでも、彼らがエッセンシャルワークを行い続けるのは、それだけの”やりがい”がそこにあるからだなんだろうなあと。
それは決して「ポジティブなやりがい」だけではなく、「ネガティブなやりがい」においてもそう。
「とはいえ、私がやらなければ、誰がやる」そんな縁の下の力持ちとなって、誰が褒めるでもないけど小さなプライドをこの胸に勲章みたいに付けて、日常に彩り加えちゃうんだよなと思うのです。
あまり言及されないけれど、一見するとこっちの「ネガティブなやりがい」のほうが、実は労働や「はたらく」においては重要な気さえしています。
そして、そんなエッセンシャルワーカー同士の間には、お互いだけが理解できる深い絆や職場のコミュニティなども同時に存在している。
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だから、そんな誰も見ていない可能性が高い自己犠牲感によっても、ひとは何杯でもごはんを食べられるんだと思うし(そう、おかずがなくてもメシが食えちゃう)し、ときに、そのためにこそひとは自ら死も選べる。
漫画でもよくあるような「ここは俺が守る、おまえたちは先に行け…!」のあのやりがい感たるや、なんだろうなあと。
ゆえに僕が強く思うのは、エッセンシャルワークの問題はそもそも、まずはその「ネガティブなやりがい」が労働(はたらく)の中における非常に重要な位置を占めているんだということを理解することだと思います。
つまり、報酬という客観的指標だけでは決して測れない、尊い「物語」と、その背後にあるものすごく強力なコミュニティが、実は中毒性が高くて、労働のモチベーションになってしまうということを、社会人の共通認識として持つことなのではないか。
彼らもきっと「山頂のカップラーメン」みたいなものを、良くも悪くも、現場で食べているはずですから。
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そして、そんな彼らが本当に薄給であるだけで、不幸なのかといえば決してそうじゃないはずで。実は、ものすごく深いやりがいを抱えている可能性もある。
日々がどれだけ忙しくても、実際には幸福だから続けているんじゃないか。
「いやだいやだ、辛い辛い」と言いながらも、人間はどこまで行っても習慣の生き物であって、その日々のループの中でも、ちゃんと幸福感を見出して、その幸福感にもちゃんとそのひとの置かれている環境や文脈の中においての「最善の合理性」があるはずなんです。
で、その合理性を反復して求めつづけるし、そのループの中にいる間は意外と幸せだったりする。
現代は、「人間がやらなくてもいい仕事は、AIにやらせたほうがいい」という議論もある一方で、それも間違いなく正しいのだけれども、それはもう「山にはロープウェイで登れますよ!」とか「何ならもっとVIP対応で、ヘリコプターで山頂まで上がれますよ」みたいな話にも似てる。
「いやいや、でも私はその疲労も込みで、山頂で食べるカップラーメンが好きなんだ」という話のようにも感じます。
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つまり、今日一体何が言いたいのかといえば、ひとにはひとの日々のルーティンの中で構築された「合理的な幸福感」が必ずあって、これは「食べ物」で考えてみるととわかりやすいんだなと思いました。
決して「カップラーメン」という客観的な存在、そこに宿る本質だけでは判断してはいけない。
当然、カップラーメンだけで考えたら、もっと「身体に良いもの」があるのは、わかりきっている。
でも、昭和のおじさんたちが、何の変哲もないつまらない仕事のあとの、プロ野球とアル添のカップ酒、そして味の濃いもつ煮込みのような、何気ないルーティンの相性みたいなものを好むように、
現代ではそれが、推しのSNS更新や限定ライブ配信とともに食べる韓国の辛ラーメンとか、ハーゲンダッツのアイスみたいなものなんだろうなと思ったという話です。
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だからこそ、そこにもっと想像力を巡らせてみたいなと思う。
当然、相手には、その中で最大限に幸福感を与えてくれる前後のコンテキストが存在する。
どうしても現代の労働環境は、みんなが同じようなビルの中にある、きれいなオフィスの中で働いていて、着ている洋服なんかも形は似ていて、向き合っているパソコンや使っているスマホなんかもまったく同じものだから、全員が似たような環境にあると思ってしまいがち。
でも実は、そこには「平地と山頂」ほどの違いが存在する可能性があるわけです。
だから、身を滅ぼすような「推し活」なんてバカなことやめなさい、と言ってみたところで、山登りという経験を経ているひとにとっては、決してわかり合えるわけがない。
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それぐらい異なる環境にあるのかもしれないという想像力を常に持ちたいなと僕は思います。
そのうえで、目の前の相手にしっかりと寄り添いながらも、安易な否定もせずに、一方で合理的なアドバイスもせず、昨日のVoicyの配信のなかでおのじさんがおっしゃっていたような「再出発」していこうとする勇気や覚悟を持ちたい。
自分の理想や、あるべき姿を一方的に押し付けるのではなく、です。
相手が否応なく求めてしまう「環境×身体×物語がつくる“旨さ”」までを丁寧に想像してみたい。
映画「PERFECT DAYS」だって、衣・食・住・労働それぞれをバラバラの要素で見たときには、どれも一般人から毛嫌いされるようなものであったとしても、あのような「物語」としてひとつ貫かれることで、誰もが憧れるものに変貌するわけだから。
そこまでの想像力を巡らせると、単体では否定してしまうものであっても、間違いなく合理性があると、自らが納得できる何かが存在するはずです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/09/09 20:22