この夏は、車でちょっと走れば海がある、川があるという和歌山という土地で、本当によく遊んだ。

午前中は自然のなかで遊び、そうめん食べて、子どもたちと昼寝する。水の中で、太陽のもとで時間を過ごすということは、思った以上に体力を使うものだ。家族全員で夏風邪のバトンリレーをして、毎年恒例の奄美に旅行をしていたら8月が終わっていた。

私にとって、書いたり、読んだりするゴールデンタイムは早朝である。ぐっすり眠って目覚めたタイミングで布団の中でスマホを開く。この時間が一番素直に受け取ったり、内にあるものを外に放ったり、「今ここ」ではない世界とつながったりできる時間なのだ。

明るくなる時間が早いからか、5時台に目覚める子どもたち。はぁ…とがっかりする心の声が何度漏れたかわからない。子どもたちの発熱中は、眠りが浅い日が続いた。

わたしが文学にふれる時間といえば、家事の隙間のオーディオブックだが、ワイヤレスイヤホンが壊れたタイミングと、クレカが切り替わるタイミングが重なり、audibleも解約してみた。

そんな暮らしの中で、文学やそれに類するものに触れる時間がこの夏は縮小し、自分との間に距離ができてしまったように感じる。



「今は秋なの?」と息子に問われた。

「もう9月だし、秋でしょ。」
とわたしは何気なく答えた。

「まだ冷蔵庫にアイス入ってるよ?」
と息子が言って、
「まだ暑いし、夏のおわりかもしれない。」
そんな話をした。



平野啓一郎さんの新刊「文学は何の役に立つのか」という本の中で、 

その世界を生きる私たちの「心」の変化こそ、大きな問題である。


という一説があり、息子との会話をふと思い出していた。

9月が始まったころの自分の心の変化を感じとってみると、音楽や本、急にそういうところに気持ちが向くようになった。

夜風の涼しさよりも、スーパーに並ぶ食材の変化よりも、自分の感覚がどこに向いているかで今年は特に秋を感じた。

そんな何気ない自分の心の向く方向で「秋でしょ」と言ったんだと思う。

同じように感じている人たちの「雰囲気」が日本の秋を作り上げているのでは。

また小説にどっぷりと浸りたい気分。



現実が目まぐるしく、文学と距離を置いてみた数ヶ月を過ごして感じるのは、勢いでどんどん動けるのだけれど、内面の活力が湧いてこない何かしらの虚しさ。

この世界と、もうひとつの世界
自分と、小説の中の他者を行き来することで自分の中がまわりだす。



先日いったカリグラフィー作家さんの個展で
”word”という美しい文字が書かれたカードを
選んだ。

言葉って何なのだろうな、とふと考えていると、突然本の中に現れたので、驚いた。

ことば【言葉】    世界から受け取り、自己に於いて編み、また世界へと受け渡すもの。この行為は日常的に反復されるが、巨視的には、出生に始まり死に終わる一回の行為とも目される。


こうして日々残している言葉たちは、機織り機でカタ、カタ、と動かす行為で、死をむかえる頃にはワンピースが仕立てられるぐらいの、生地になっていたりするのだろうか。近くでみるとダークな糸やちぎれそうな糸が入っていたとしても、全体的に、いいトーンに落ち着いている生地のワンピースであの世に行きたい。



平野啓一郎さんの「文学は何の役に立つのか」にら断片的であるようでどこかつながりのあるエッセイが散りばめられていたように感じる。

わたし自身と文学の間の距離を考えると同時に、少年院や鑑別所に収容されている人たちのことや、勤務先の不登校の生徒にも思いを馳せた。

わたしが直接何ができるわけではないのだけれど、「健康で文化的な生活を」と願います。

文学が必要な人のところに、必要なタイミングで、届く世界であり続けますように。

この秋はまた、文学とわたしの距離をぐっと縮めたい。