今朝話題になっていた「氷河期世代が令和を生き抜く方法」という匿名ダイアリーの記事。


内容は、氷河期世代の匿名投稿者が「食生活・運動・規則正しい生活」の改善で長年の体調不良や無気力から脱出できたという体験談です。

これは本当にその通りで、いま30代後半のゆとり世代の自分であっても、まったく同じことを強く実感しています。

ーーー

そして、こういう記事を読むたびに、ビジネス文脈のひとたちが語る「資本主義の世界で、勝ち組になればいい」という話とも、完全に同じ論理だなとも思います。

「ビジネスで勝ち抜け」も、真逆に振って「生活を整えろ」も、どちらの場合であっても、できる人には一瞬でできることだし、できない人には一生かかってもできないこと。

要は一昔前なら侍になるか、禅僧になるか、みたいな話であって、でも世の大半は、どちらにもなれない農民なわけですよね。

じゃあ、そんなできない人への包摂を、どうするかという問題が本質であるはずで。

ーーー

この点、どうしても、両極端な意見が出揃うと「じゃあ、どっちかでしょう」と思ってしまいがち。

そして、あれだけ喧々諤々と議論してきた人たちも両極端の意見、そのどちらかの立場に大抵の場合、安住しがちなんですよね。

メディアを通して議論しているひとたちは優れた才能を持っているひとたちが多いから、両極端なアクロバティックなこととも、カンタンにできてしまう。

でも、繰り返しますが、どっちもできないというひとたちのほうが世の中には多くて、その両方の立場からこぼれ落ちるひとたちを、一体どうやって包摂していくのかが、本当の意味での社会の課題なんだろうなと思います。

それこそが本来の社会全体で考えていく必要があること。

そして今、この認識のズレみたいなものが、漠然と世の中に存在しているなと思います。今日はそんなお話です。

ーーー

この点、少し冒頭から話は逸れるのですが、このまえ、久しぶりに祐天寺〜学芸大学あたりを歩いたら、結構ビックリしました。

なんだか以前よりもかなりギラついた街になっていたのです。

15年前なら恵比寿〜中目・代官山あたりに住んでいそうなひとたちが、そのまま横にスライドしてきた印象。

そりゃあ、青文字系のひとたちは、みんな小田急沿線の世田谷方面逃げるよなと思いました。

「なんで、わざわざ小田急方面行くんだろう?東横線沿線のほうが良くない?」って思っていたけれど、その理由にも納得です。

ーーー

で、この話を漠然とひとりで考えているときに、どうしても未だに「赤文字系・青文字系」という分類を使ってしまう自分に気づきました。

雑誌世代を経験していない、若い子たちに見事にキョトンとされることもわかっている。でも、これ以上に的確な分類分けの言葉が見つからず、未だに、この対立軸を用いてしまう自分がいます。

「この二大巨頭のふたつの違いを明確に言い表すときに、一体どうすればいいの…?今は何という言葉が変わりに用いられているの?」ってAIに聴いてみたら、

「赤文字青文字は古いです、今は『界隈』です」と怒られました。

この指摘に、僕はかなり衝撃が走ったんですよね。

そして「若い子たち、特にスマホネイティブ世代が政治の右派・左派にイマイチピンときてない理由も、これか!」ってめちゃくちゃ腑に落ちました。


ーーー

それは一体どういうことなのか?

このあたりから、今日の一番の本題にも入っていきます。

この点、僕の無意識な思い込み、その根底にあったのは、どちかその二大巨頭から選んで、そこに属することが「選択の自由」だと思っていたから、なんですよね。

極端に言うと、どっちかの大きな船にまず乗ることが、先決問題だと思っていた。

現代で語られる細分化や多様性だって、あくまでその二大巨頭の亜種や亜流のような、階層構造のように捉えていたイメージです。

その細分化した中から好きなようにカスタマイズできることこそが、私の中にある誰も犯すことのできない権利、つまり「裁量権」そのものであって、自由を謳歌するということの意味合いだと思い込んでいたこと自体に、ハッと気がついたのです。

ーーー

平成までは、メディア(特にマスメディア)による、この二択、ふたつの大きな分かれ道があって、あなたはどちらの道を選びますか?とずっと問われていたと思います。

右派や左派、赤文字や青文字の二択に限らず、「働くなら大企業かスタートアップか、暮らすなら地方か都会か、結婚するかしないか、子どもを産むか産まないか、家を買うか買わないか…」などなど。

このように、ありとあらゆる場面において、まず大きな二択があって、そのなかでの微調整が行われることが多様性の本質なのだと。

僕らの時代ぐらいから流行り始めた「自己分析」という言葉も、この2つの大きな分かれ道をまず選ぶための、より自分に最適な方は一体どちらかを判断するための手段に過ぎなかったわけです。

ーーー

もしくは、完全にその議論の裏をかいて二項同体を選ぶ。それが東洋思想。

つまり、西洋思想の二項対立に対して、アクロバティックに裏をかくようにして「どっちかじゃなく、どっちも!」という二項同体。

大体、普通の生活や暮らしを捨てた世捨て人のような人は、まさに出家するような形で「どっちかじゃなく、どっちも!」というこの二項同体の価値観を選びがち。

つまり、正味、その三択だけが昭和〜平成までの思想であり、価値観だった。

その三択を選べないひとたちに対しては、社会福祉で包摂される事柄であって、自分たちとは関係がないものとして多くの人々から見過ごされてきたように思います。

ーーー

でも、スマホネイティブ以降の、今の若い子たちからすると、その二大巨頭や、二股の分かれ道さえももう存在しない。というか、それさえも、数多ある「界隈」のひとつなわけです。

だからまったくピンと来てない。「まず大きく分けてふたつの分岐を選んで、そこから〜」という行動原理自体が一ミリも理解できないんだと思います。

でも、昭和生まれの僕らは、二股の分かれ道からの二者択一構造に、あまりに馴染みすぎてしまっているがゆえに、そのことにまったく無自覚できたわけです。

だからこそ、昨日までの僕みたいに「赤文字・青文字」という言葉は雑誌文化の衰退と共に消滅したとしても、それに変わる「スマホ時代の新しい言葉」が存在するのだと信じて疑わずに、それをAIに聴いてしまった。

ーーー

でも、繰り返しますが、令和的な価値基準はもうそうじゃないわけです。

界隈という「多元主義」こそが当たり前の世界。

それゆえに、まず二大巨頭という価値観に対して「はて?」となる。

最初から、どの界隈も完全に同列。どれも所詮、界隈の一部にすぎない。そこには、大通りなんて一切存在せずに、すべてが猥雑な路地裏であり、その路地裏のような迷路が、無限に続くだけ。

話が噛み合わなくて当然だよなあと思います。

そんな価値観の中で育ってしまえば、当然、どちらかに安住しようというインセンティブ自体も全く働かなくて当然です。

そして、ここがきっと昭和世代が、平成生まれに対して、いちばん気に食わないと思っているところのひとつです。

ーーー

この点、昔は「どっちもできない」と語る人たちのスタンスは、それは単純に「甘え」だと見なされたわけですよね。

どっちかを否定することがあってもいいから、だったら、否定した逆の立場に属することが筋だろう、と思われていたわけです。

どっちも違う、は単なる甘え。そして、実際そこで暴力とか叱責とかをすれば、ある程度はどちらかにおさまった。

でも現代は、それこそがハラスメントになるわけです。

とはいえ、昔は、そのハラスメントのおかげで(せいで)、中間にいる人間も、なんやかんやで、どちらかに安住できてしまっていたわけですよね、良くも悪くも。

それを身体知で体験してしまっているから、昭和世代は平成生まれを指さしながら「最近の若いもんは〜」と批判するわけです。

ーーー

でもここで、何よりも大きい発見は、どっちかの船に対して無理に乗り込もうというそのインセンティブ自体が、もう働かないということ。

だって最初から界隈だから。船は、無数に存在する。

無限スワイプするように選べるのが、現代の価値観です。

昔のように、雑誌の数は限られていて、それは月に1冊しか発行されず、同じ雑誌を何度も繰り返し読むなんてことは現代の若者には、ありえない価値観。

次から次へと別の界隈の新しい情報が、読みきれないほどに情報の方から自分のスマホに飛び込んでくる。

そして、どの界隈にも愛想よく、そこそこ話が合わせられてしまうし、それゆえに、どこも自分の居場所じゃないとも同時に感じる。このあたりが、現代の若者の本質的な価値観なんだろうなあと。

まさに鶏とたまごの関係で、界隈感覚が先か、本当にどこにも真の意味で合わせられないのかどうかはわからない。

でも、その両方からのアプローチによって「どっちも違う」となるし、だからといって無理に合わせようとも思わない、そんな立場があたりまえになっていくのが、現代の界隈世代の感覚なのだと思います。

ーーー

この点、ちょうどいまAudibleで聴いている『コンビニ人間』を書いた村田沙耶香さんの新刊『世界99』という長編小説も、まさにそのようなお話です。

僕はこの小説が、最高に胸糞悪い、最低な小説だなと思いながら聴き進めているのだけれど、でも聴くこと自体をやめようとも思えない。

なぜなら、これこそがいまの世界の現状だと思うから。

世界は、世界1 or 世界2だけではない。つまり今日語ってきたように、右派と左派、赤文字と青文字、だけじゃない。

グラデーションであり、スペクトラムでもあり、それゆえに無限大、つまり99…それが今の社会であり、それゆえにどこにも属せない「全部が空っぽな空虚な人間」という感覚を抱く若者たちが無限に増え続けているのが、令和的な現象ということなんでしょうね。

ーーー

もしくは、そのすべてが相対化される圧倒的な空虚感に耐えられなくなって、朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』が描くように、自ら意図的に視野をドンドン極限まで狭めていって、推し活や陰謀論のように、現代の「新興宗教」に自ら進んでハマりに行く。

令和に、唯一存在している「二択」があるとすれば、きっとこの二択なのだと思います。

この、界隈の話は本当に興味深いし、それゆえに引き続き考えていきたいテーマです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。