僕ら日本人がリベラリズム的な思想に基づいて「自由」を求めてみても、あまりしっくりこない感覚ってあるかと思います。

すぐに何か「空気」や「世間」的なものに飲み込まれてしまう。

自由なんてものは、きっと日本人にはあまり馴染まないものであって、それよりももっと、自分たちにとって居心地の良い「和」みたいなものを根本的には求めているんだろうなあと僕は思うのです。

そんなことを考えて、僕は約10年ほど前に、自らが起業した自分の会社に、Waseiという名前をつけました。

もっと「和を以て貴しとなす」の表面的ではなく本質的な部分における大切さ、みたいなものが僕らには必要だと思ったからです。

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で、なぜ唐突にこんな話を書き始めたのかというと、先日オーディオブックで、内田樹さんの『生きづらさについて考える』を再読していたときに、非常に膝を打つような表現が書かれてあったからです。

それが今日のタイトルにもあるとおり、日本人が希求しているのは「自由」ではなくある種の「調和」だというお話です。

電子書籍で読んだときには完全に読み流してしまっていたけれど、今だと、この話はものすごくよくわかる。

さっそく本書から少しだけ引用してみたいと思います。

僕が学生だった時代、1960年代末から1970年代初め大学はほとんど無法地帯だったわけですけれども、「無法」ではあったけれど、「自由」ではなかった。だって、どういうふうに「無法」にふるまうかについて定型があって、それに従わないと処罰されたから。それは校則が煩わしいと言って反抗する高校生たちの反抗の仕方が定型的であるのと同じです。「型にはまりたくない」と言う少年少女たちが定型的な服装をして、定型的な言葉遣いをして「定型に反抗する」。それのどこに「自由」があるんだろうと思います。     

でも、僕はそれが「悪い」と言っているわけじゃないんですよ。そういう定型的な生き方をする人たちが求めているものは「自由」ではないと申し上げているだけです。たぶん彼らが求めているのは、ある種の「調和」なんだと思います。「調和」と「自由」とはまったく別物です。そして、日本人は「調和」のうちに安らぐことを、ヨーロッパ人が「自由」のうちに安らぐことを求めるのと同じくらい切実に求めているのであって、それはそれで一つの「種族の文化」だと僕は思っているのです。


これは本当によく理解できる話ですよね。

僕が感じた、自由がまったく馴染まない感覚、日本人がテンプレにハマりたくないと思えば思うほど、テンプレにハマっていくジレンマみたいなものを、とてもよく言い表してくれているなあと思いました。

また、だからこそ「自由」よりも、本来僕ら日本人が求めているのはある種の「調和」なのではないか、というご指摘も非常に納得感のあるお話です。

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じゃあ、その調和って何なんだ?という話になると思います。

ここからは完全に僕の私見になってくるのですが、それが「共創」なんだと思うんです。他者を受け入れて、他者とともに、つくり出すということ。

自分以外の他者を、自分を脅かしてくる存在であって、敵やライバルだと認定し、争い蹴落とす、そうやって自らの「自由」を制約してくるものに対して抵抗することが、自らの「自由」を達成する手段だと、欧米社会の中では思われがち。

でも、そうじゃなく、目の前の他者の弱さや邪悪さ、なぜそんなことをするの?と思うような過程もひっくるめて、そこで他者を抹殺したり切り落としたりするわけではなく、それでも共創しようとすることに、良くも悪くも価値を見出す国民性が、日本人なのではないのかなと僕は思うのです。

それを実現できたときに、僕らの中にある、ある種の調和的感覚が初めて満たされるんじゃないかというのが、僕の仮説です。

それが「和を以て貴しとなす」という言葉の中にも含まれている。

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では、なぜ日本人が民族的にそのようなマインドセットを身に着けてしまったのか。

これは、とても不思議だと感じますよね。

その答えはきっと、そのような自然環境に囲まれていたから、だったんでしょうね。

それこそ、アニミズムからの神道の流れ、つまり日本人にとっての圧倒的な他者、そして「カミ」というのは、まさにそういう存在だった。

キリスト教のように、砂漠の中で問いかけても何も答えてくれない神じゃなくて、古事記にでてくるような、答えすぎてしまう神に囲まれていたと言っても良いのかもしれない。

常に自分たちの意志と反して、お正月でも関係なく地震が起きて、津波が襲い、火山は爆発をする。それ以外にもありとあらゆる自然が猛威を振るい、自分たちの生活に牙を剥く。

でも一方で、その恐怖とは裏腹に、その荒ぶる神たちの所業によって、稲穂が垂れて、海産物も育ち、豊かな富を与えてくれる存在でもあった。

そんなツンデレみたいな状況に「神」を見たわけですよね。日本人にとっての神は、まるでDVの彼氏みたいな存在なわけです。

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言い換えると、脅かすとしても、歯向かうとしても、調和を築ける対象として神を見立てないとやりきれないというか、実際問題として、そうしないと生きていけない構造の国だったからなのだと思います。

それは今も間違いなく続いていて、12年以上経過したあと、近年制作されている311を題材にしたドラマなんかを観ていても、非常に強くそう思います。

大自然がもたらした圧倒的な理不尽を、どうにかして「肯定したい」という気持ちみたいなものが本当に強く見え隠れする。

その理不尽の肯定こそが、弔いなんだと言わんばかりに、です。

それは他の国のフィクションや物語では決して起きない現象だと、僕は思います。

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そしてここで話は少し逸れるんですが、昨日、今話題の映画『オッペンハイマー』を観てきました。

世界の中で原爆が落とされた国が唯一日本なわけだけれども、その原爆をつくった科学者、オッペンハイマー苦悩の物語が描かれた作品です。

それをクリストファー・ノーラン監督の独特な「時間」を超越する視点によって描かれていました。難解ではありましたが、本当におもしろかったです。

あまり語りすぎてネタバレになるといけないので、映画の内容には詳しく触れないけれども、原爆というのは、地震と雷と火事、そんな何もかもが同時に併せ持った神みたいなものだったんだなあと映画を見て思いました。

実際、映画の中でも神話の中の「神」にも喩えられていました。

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だとしたら、日本は原爆を落とされたときにも、そこにある種の神を見たんじゃないか、それが僕の今の仮説です。

そのあとに、それを意図的に落とした存在として日本を占領しにやってきたアメリカという国に対しても、そこに「神」的な何かを見て、肯定的な要素を見出したわけです。

自分たちを豊かにしてくれる対象としての、荒ぶる神のように見立てるような態度だったと言えるのかもしれません。

それを日本人の奴隷根性と揶揄することは、非常に簡単なのだけれど、別の見方をすれば共創や調和の意識そのものだと思う。

僕は、それはある意味では、称賛に値することだと思います。

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これが逆に、もしアメリカが自分たちの国に原爆を落とされていて、敗戦国となっていた場合、その原爆を落とした敵国と手を取り合って繁栄していくという道を辿れたかといえば、アメリカ人には間違いなく無理だったと思います。

ヨーロッパ諸国だって無理だと思う。それよりも自分たちの「自由」を希求するはずです。

だからこそ、僕はこの「自由」よりもある種の「調和」を尊ぶ姿勢というのは、日本人だけが持つ圧倒的な強みだと思います。

アニミズムの文化と、先進国の合理的な知性を同時に持ち合わせている、完全に矛盾する2つの価値観を療法持ち合わせ続けていられているのが、日本人の強みなんだろうなあと。

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そして、ここから先の未来は、原爆なんか圧倒的に凌駕するぐらいのインパクトを持つ、AIが誕生してくるわけですよね。

でも日本人は、その時も、自然や敵国に対して行ってきたことと同じように、AIもある種の「カミ」と見立てて共創を目指すと思うのです。

だって、相手はそれこそ「デジタルネイチャー」なわけですから。

わかりあえなくても、共に価値を高めていくこと。そこに日本人は常に価値を感じてきた。まさに、鉄腕アトムやドラえもんの世界観ですよね。

AIとも一番最初に手を取り合えるのはきっと日本人であって、それこそコミュニティの一員として早い段階から迎え入れるはずです。というか既に始まっていますよね。

僕は、その「調和」や「共創」のほうの価値に、可能性を見出していきたい。

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とはいえ、たぶんこれからAIという存在は間違いなく、人間に牙をむく。それは既に起きた未来と言っても決して過言ではないはずです。

巷で「シンギュラリティ」と呼ばれているようなことが、これから起きようが起きまいが、それはきっと訪れる。原爆以上のことが起きても、何もおかしくないと思います。

その時に、ヨーロッパのような国々は、規制に向かって自分たちの自由を確保しようとするでしょうし、アメリカのような国は、より一層フリーダムとしての自由を求めて加速主義的に進むのでしょう。

第三の道として、それでも共生し調和を見出そうとする日本は、全く異なる道を進むのだと思います。それは日本人のメンタリティだからこそできること。

このあたりは、Wasei Salonの中でも引き続き考えていきたいテーマだなと思っています。

なかなかに抽象的で、ぶっ飛んだ話を書いてしまった自覚は強くあるのですが、そんなことを考えている今日この頃です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。