先日、Wasei Salonの中で鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』読書会が開催されました。

今日は、この読書会を通し、みなさんと対話していく中で自然と浮かんできた問いを改めて、この場にも丁寧に言語化しながら書いてみたいなあと。

https://wasei.salon/events/c0d89c9b1906

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過去10年ぐらい、インターネットが一般的に浸透してから、わかりやすく主流派になった意見として「いじめられているなら、どこか別の場所にいこう」という話があります。

「自分と合わない場所では戦わず、全力でエスケープしろ」と。そうやって逃げることは決して間違っていないのだ、と。

これは、ものすごく正しい意見だと思います。

「くだらないことに命なんてかけるな」というのは、本当にその通りです。

とっても大事なアドバイスであり、ものすごく大事な提言だと思います。

そして、この書籍の中でも同様のことが、何度も繰り返し強調されていました。

この10年近くの間、このような正しい意見によって実際に救われた命の数は大げさではなく、数万単位ではきかないはずだと思います。

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で、そのことが大前提のうえで、問いの具体的な内容に入っていくのですが、あまりにもこの意見が正論で大切な話すぎるがゆえに、それがみごとに世論の定説になってしまった。

その結果として、若い世代を中心に、今起きていることに自分が合わなかったら向き合わずに外に出よう、という決断を延々と繰り返しているように思うですよね。

つまり、わかりやすく衝突したときに、目の前のことに立ち向かうことを一切してこなかった世代というのが、僕ら含めて僕らよりも下の世代なんだろうなあと。

果たして、そのようなフェードアウト癖だけを、身に着けてしまって本当にいいんだろうか?というのが、最近の社会に対する疑問なんです。

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というのも、現代における社会問題の多くは、この「向き合わない態度」によってもたらされていることが、一方で非常に多いよなあと思うからです。

学校に限らず、恋愛や結婚や子育て、そこからの不倫や離婚、会社や地域コミュニティにおいてもすべてそう。

昔ながらの伝統や、それに類する宗教の問題なんかも、まさにそうかもしれません。

ありとあらゆる環境において、困難という名の面倒くさいことから逃れることが、どんどんと容易になる一方で、それらの環境自体を改善する努力をする方向には一切向かわずに、完全に放置されているのが現代です。

で、僕らがエスケープするからこそ、既存の集団側は「あっ、放置したんだ」といういことにもなるわけですよね。

だから、その中の構造自体は、いつまでも変わらない。

むしろ、異なる感覚や意見がそこから消えてなくなるわけだから、内部の構造がより一層強固になっていく構造にもあるんじゃないか。

つまり、良くも悪くも、僕らの世代が立ち向かわずエスケープし続けてきた結果、従来の世間が変わらずに存在し続けている。

結婚もせず、子供も産まずの自分のことを棚に上げていることは重々承知していますが、それでもエスケープし続けていくことが、これで本当にいいんだろうかとは、最近よく思います。

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そして、現代人は、このような価値観を持っているから用途別や目的別で常に適宜適切な人が、適切なタイミングで自分のまわりに存在することが幸せなことである、というような価値観にもなってきているように感じます。

その結果として、友達を用途別に使い分けるというような行動にも出がち。

具体的には、食事に行く友達、一緒に旅に行く友達、議論をする友達などなど、どうせ人と人とは全面的にはわかり合えないのだから、わかり合える部分だけを一緒に楽しんで、あとは人間関係自体のほうをスワイプするように変えていけばいいじゃないか、と。

そうやって、人間関係もアプリや道具のように用途別に使い分けるようになり、ひとりひとりの人間との深い関わりを避ける風潮が、わかりやすくいま生まれています。

もちろん、これによって表面的な満足感は得られるかもしれませんが、それが本当の幸せと言えるかどうかは、疑問が残るというひとは多いはず。

これは哲学の中でよく話題になるような、映画『マトリックス』のようなハッピーカプセルのなかに入っていたら、すべての欲望が満たされるけれど、それで人間が生まれてきた意義みたいなものを感じられるのか?という話なんかとも、非常によく似ている気がします。

だからこそ、面倒くさいことにはかかわらずに、エスケープをして美味しいとこ取りをしようとする価値観に違和感を唱えるひとも、最近では増えてきたように思う。

むしろ、そのような衝突から、相手と自分の弱さを共に受け入れること、それこそが幸せなのではないかと。なぜならきっと、それが人間としての「成熟」につながるから、なのでしょうね。

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もちろん、くれぐれもご誤解しないでいただきたいことは、逃げること自体を否定したいわけじゃないことです。

逃げることは、本当に大事なこと。

でも、その行動指針を獲得したことによって、自分と合わなければ横にズレる、立ち向かうことは一切しないという行動グセが、ついてしまっていること自体はどうなんだ?ということです。

そしてきっと、ここまで読んでくれた方々にとっては、「エスケープして、新しい場所で第三の道をつくることに主眼にあるんだから、それでいいじゃないか」と思うかもしれないけれど、それが功を奏していない現代の状況も、現代はまちがいなくあるかと思います。

一部でユートピアみたいなものはつくれたとしても、それ以上は広がらない。

社会全体においては、未だに古い価値観が旧態依然として残ってしまっていますよね。だから、被害者の数はいつまでたっても減らない。

学校という組織だって、僕が卒業してから20年近く経過しているのに、いまだに似たような問題に悩まされている。

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今日のこの視点を、逆の方向から眺めるとエスケープすることの有用性は、もうはっきりとわかったわけです。

その有用性がはっきりとしたから、その有用性ゆえに次に現れてきた問題にもフォーカスしてみませんか、というのが今日の僕の問いであり、提案なんです。

前の時代に戻る必要があると言いたいわけでもない。

エスケープし続けると、個人は救われてそして社会がどうなるかも見えてきた。

つまり、「真正面から立ち向かうこと」と「エスケープすること」の弁証法をするようなイメージに近いです。

社会をより良い方向に導くためには、個人が直面する問題から逃避するだけではなく、ときに問題とも積極的に対峙し、解決策を模索することも求められる。

ただし、これは個人の力や努力だけでは不可能であって、社会のサポートや共同体としての取り組みが必要だと思います。

様々なレベルでのアプローチと援助が組み合わさることで、より健全で寛容な社会を実現することができるのでしょうね。

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つまり、なんで今このタイミングで、このような話をしているのかと言えば、「コミュニティ」があるからこそできることも、同時に増えてきているように感じているからなんだと思います。

当時にはなくて、今はあるもの。

それが継続的につながりを構築できる「コミュニティ」の存在だと僕は思います。

言い換えると、個人の時代にはエスケープすることが何よりも最善策だった。

でもコミュニティ文脈は、またそこに新たな可能性を生み出してくれると言えるのではないか。

一時退避場所のような役割として受け入れて、立ち向かって全然ダメだった場合には、また安心して戻ってこられる場というような。

ここには、自分の考えを受け入れてくれる人たちがいると思える、そんな安心感がちょっと面倒くさいこともあるかもしれないけれど、一度立ち向かってみようかなと思える勇気につながるんじゃないのかなあと思うんです。

今のコミュニティ文脈は、ここにも一筋の光やその可能性みたいなものを生み出しているように感じます。

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なにはともあれ、このような問い自体を丁寧に受け取ってもらえることの喜びは、計り知れないなあと思います。

読書会の最中にも少しだけこの話をしてみたのですが、みなさん決してバカにすることなく本当に真剣に聞いてくださって、それだけでなんだか心が満たされる感覚は間違いなくありました。問いが解決するわけでもないのに、です。

これ自体がすでに僕の中では新たな一歩になっている気がしています。

Wasei Salonの読書会に参加していなかったら、このようなことも一切考えず、漠然と未だにエスケープすることこそが最善策であって、その定説を何一つ疑わずに、用途別の人間関係を構築して「私はいま幸福である」と満足していたはず。

でもそれだけが決して最善ではないと思っている自分が今は存在しています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。