モンゴルの遊牧民は、どうやって家を決めるのだろう。
彼らは、自分たちに適した場所がどこなのか、わかっているのだろうか。それとも、どこであろうと自分たちが適応するように暮らしているのだろうか。
今暮らしているスペインでは、月ごとに住む場所を変えている。翌月の宿を月初に決めるのだが、その"家を決める"という作業が、段々しんどくなってきた。
基本的に、宿泊する日程に近付くほど、宿の選択肢は少なくなってくるので、早めに予約を取っておきたい。だから、月初は毎日のように宿を眺めているのだが、ある程度好きに住む場所を決められる喜びより、その不自由さをもどかしく思う気持ちの方が強い。
家を決めることは、たくさんの分岐点に立つことであり、たとえその分岐点を過ぎたとしても、その先に広がる無数の分岐点に出会い、また途方に暮れていくことでもある。
ひとりで暮らすのか。誰かと暮らすのか。誰と暮らしながらも、時々ひとりになるのか。マンションなのか。一軒家なのか。状況次第とはいえ、選択肢が一つしかないと思われる状況でも、自身の固定された考えを手放してみると、実は選択肢には余地があるものだ。だからこそ、途方に暮れる。
今の家の不自由さを嘆く度、今後やってみたい家にまつわる理想を掲げる度、果たして、それは家の問題であるのかとも思う。もっと根源的な問いではないのか。家の問題にすることで、今あるものを見逃そうとしているのではないか。
おそらく、そういった理想と不満は、家の問題ではなかったりするのだろう。どこかで輪郭を確かめていく必要がある。温かさを知っていなければ、冷たさは感知できない。身体感覚というより、皮膚感覚のような手触りを通して見つめられる、自身の他者性というものがあるのだと思う。
とある人は「帰る場所とは自身の中、あるいは人自体を指すのかもしれないね」と言った。物理的に帰る場所、故郷があること以外にも、「どこかに帰る場所がある」「会いたいと思う人がいる」と思えるのは心強い。場所と人を切り分けるのではなく、混ざり合って懐かしさを感じるものになる。自分はそう思えるだろうか。そう思えるようでありたい。
人間の権利は「個室」から始まるのではないか、と思う。自分は孤独には、それぞれの形があると思っている。そういった孤独の形を確かめるには、自身と対話する環境が必要になってくる。そういった意味で、個室をひとつの例として挙げておきたい。
ハンナ・アーレントの「孤立」という概念に近い。人との繋がりを断たれた状態。本来はそれ自体に、良し悪しはないのだと思う。ノイズを減らしたら豊かになるとか、孤立しているから寂しいとか、それらは全く別の話ではないだろうか。個室に篭って、孤立が成立させたら良いと、一辺倒に思っているわけでもない。
ただ、自身に問いかけ、そうして生まれた、未知のわからなさを見つめる場所には、孤立が関わってくるのではないか。社会的な目線を全て断つことはできないとしても、自身の中で感じたことを良し悪しで評価せず、ぐっと見つめてみる環境とはどういったものであるのか。それらを考えてみて、自身の手でつくっていく余地はあるのだと思う。
そういった孤立できる場所を、自分は欲しがっているのかもしれない。今はそれができないというわけではない。宿も個室を選んでいる。
ただ、家を考えていくとき、自身の足りなさから求めるものがあると思いつつ、一般的な家という概念を解体した上で、改めて"家"という概念を手づくりしてみたくなったのだ。どうしようもなく、やってみたくなった。"ついで"に何かできることも生まれてくるはずだ。それが自分にとっての生き抜くことにも繋がっていくのだろうとも思う。
そして、"家”を手づくりしていく背景として、不眠のこともある。もう長い間、素直に入眠することが難しくなっている。
果たして満足な睡眠が存在するのかという問いもある。睡眠が不安定な自分の身体との付き合い方は、ずっと調整し続けている。最近の身体の不調もあり、そういう付き合い方を考えていくことの大事さを痛感した。意外と慣れてしまったりするところもある。だけど、それは麻痺しているとも言えるのかもしれないなと思った。
睡眠に関しては、外部環境に左右されるところが大きい。つまり、安定して静かな場所であれば、慣れてきたら眠りにつきやすくなる可能性が高い。なのに、当たりか外れか賭けのような感じで、毎回宿を選んでいる状態は、やっぱり何か変えた方がいい気がした。
なので、静かな場所で寝たい。もうシンプルに。静かに眠れる寝床が欲しいのよ。
そういう寝床を作ってみて、それでも眠れないのなら、そこからまた見つめ直せばいいのだと思う。寝床を整えない限り眠れない、そうすれば良くなると思い込むのではなく、とはいえ、寝床も手づくりしてみたいのだ。
帰国したら、どこかに定住したいと思っている。
日本に帰らず、英語圏のイギリスやカナダに住んでみる選択も考えたのだけど、ここまで書いてきたように、"家"という概念を手づくりすることをやるのが先決だと思った。
その場所に永遠に住むと決めるわけではない。どこかに住むということは、そういった想定に収まらないものだ。だが、今までのように、スーツケース1つか、バイクに積めるだけの荷物で、夜逃げのような引っ越しではなく、引っ越し業者に見積もりを出してその額を渋るぐらいには、重量のある定住をしてみたい。
そういう家がある状態で、イギリスやカナダ、他の国に行くということは、また違った楽しみがあるのだと思うから。
家すらない状態ではあるが、家を開くこともやろうと思っている。何人か泊まれるような、人を招けるような家にしたいと今のところ思っている。
どこに住むのか全く決めてないので、どうなるかわからない。全く想定外の暮らしになるかもしれない。とりあえず、川と丘のある街に住めたらいいな。
恐れは想定外に陥ったとき、自身の素直さを覆い隠そうとする。だけど、いつだって、ままならないまま、時間は流れ、はたらき、ぐるりと旋回するように生きていく。人々は螺旋のような軌跡を辿る。孤独も同じではないか。孤独という螺旋を巡って生まれた言葉は、剥がれ落ちるように書きつけることで、恐れや人々と共存していく道を紡いでいくのだと思う。「ままならず螺旋する」は、はたらくことと書くことを繋げる自身の試みであり、恐れや人々と共に生きていくための探求の記録である。
走る犬を撮っていたら、ピンボケして合成みたいな質感になった。スペインでは、リードの付いていない飼い犬をよく見かける。飼い主は人が多いところではリードを付けて、それ以外は外して、犬を遊ばせたりしているみたいだ。メトロにも乗ってくる。犬に寛容だと思いつつ、犬嫌いの人はしんどそう。犬の歩き方や表情のコミカルさは、どこから来ているんだろうか。