最近よく思うのは、通常の道徳や倫理観を持ち合わせている人間だったら、絶対にやらないことを挑戦するひとへの応援の仕方が、徐々に変わってきたなあということです。
「これからの未来を見据えたら、こっちのほうがいいよね」と、現代の社会通念を完全に無視して、開き直れる人間というのが、世の中には一定数存在している。
そんな人たちに対して「いいぞ、もっとやれ!」って煽りつつ、無責任に背中を押すことができるのが、web3型の支援、具体的にはNFTやトークンエコノミーの良いところだなあと思います。
従来の株式投資が、企業活動に対してある種の無責任な立場から煽ることができて、そこで生まれたリターンを金銭的に分配することができるとしたら、web3分野におけるNFTやトークン支援は、その個人版なわけですよね。
もちろん、これまでのインフルエンサービジネスとは違って、そこにはヒト・モノ・カネすべてにおいてレバレッジもかかってくるわけだから、従来とはまったく違う結果がもたらされることは間違いない。
もちろんそのうえで、鬼が出るか蛇が出るかは、今のところ誰にもわからない状態です。
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で、ここで話は少し逸れてくるのですが、世間でよく耳にする「表現者やアーティスト、芸能人やスポーツ選手が、政治的な発言をするな!」問題ってありますよね。
そんな一般人の誹謗中傷に対して、リベラル知識人の人たちからは、政治家やタレントだって政治的意見を持って当然だろうと反感を買い、僕も実際にそう思います。
でも、一方でこれって、そんなふうに単純な話でもないよなあとも同時に思っています。
そこには「個人は一貫した意見を持ち、それを社会に常に表明しなければいけない」という無意識の思い込みがあるように思うのです。
言い換えると、個人の生活から自らのビジネス、果ては政治思想においてまで一貫して意見があることは当然であって、そこには西欧の個人主義的な観点があるなあと思ってしまいます。
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で、最近はそのような無意識な思い込みからなのか、どのような立場であっても、個人のSNSを使って、何かしらの政治的発信をするひとたちが増えている。
たとえば、小説家であっても、なりふり構わず、ものすごくリベラルな発言を繰り返すひとたちが増えてきました。
「人間なのだから、個人の意見を持っていて当然だろう」とある意味で開き直っているわけですよね。
でも、個人の意見を持っていることと、そのうえで自己の社会的な関わり方というのはまったく別問題だと思っています。
この問題に対して、僕はいつも違和感を感じるポイントはここなんですよね。その関わり方の”節度”のほうが、本当は求められているはずで。
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たぶん、これは意味がわかりにくい話だと思うので、具体例をあげたほうがきっとわかりやすいと思います。
最近、河合俊雄さんの『村上春樹の「物語」: 夢テキストとして読み解く』という本を読み終えました。
河合俊雄さんは、いつもご紹介している心理学者・河合隼雄さんの息子さんです。
で、河合俊雄さんは村上春樹さんのインタビュー内容をご紹介しながら、「なぜ村上春樹は社会の問題において、意見が求められても自分の意見を語らないか」について書かれていました。
以下は本書の中で紹介されていた、村上春樹さんのインタビューからの引用です。
「ときどき新聞社から電話がかかってきて、何かの出来事についての意見を求められます。
たとえば『イラク戦争に日本の自衛隊部隊を派遣することについて、どのように考えるか?』とか『十二歳の少女が同級生の首を切って殺した事件について、どう思うか?』と
か。
もちろん僕には、それぞれの事件について、ある程度明白な個人的な意見はあります。
しかし個人としての僕が意見を持つことと、小説家である『村上春樹』が意見を持つことのあいだには、確かな違いがあります。とはいえ新聞に載る僕の個人的意見は、言うまでもなく小説家である村上春樹の意見として、世間に受け止められることになります。そういうこともあって、僕はメディアからの質問には、原則としてなるべく返答しないことにしています」
そして、この発言に対して、著者の河合俊雄さんは、以下のように語ります。
世間の受けとめ方だけではなくて、多くの小説家、芸術家などは、個人としての自分と、小説にせよ、絵画にせよ、自分が得意とし、その技術を磨き上げている媒体を通じて世界を映し出しているときの自分との区別を残念ながらできていないように思われる。だから私的な随筆からワイドショーなどにおける様々な社会事象に関するコメントに至るまで、心理学的差異を忘れたディスクール(言説)や語りが、世の中に蔓延することになってしまう。そして世間はもちろんそれを混同して受け取ってしまう。
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この話は、本当にそう思います。
SNSの登場は、ここを一緒くたにしてしまったことが本当に良くなかったことだよなあと感じるのです。
このようなことが続くと、やがて本来は別次元の世界を映し出しているはずの小説や絵画さえも、個人的な言説と同次元のものとして矮小化されて理解され、ひいては誤解されることにつながってはいかないだろうか、と河合俊雄さんは書かれていました。
ゆえに、様々な事件や社会現象などについて村上春樹が安易に意見を表明しないのは、それらにあくまで作家として関わらねばならないという自覚が認められるからなのだ、と。
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このようなスタンスや認識というのは、いま本当にとても大事な視点だと思います。
「何か言いたいことがある人に対して、黙っていろ!」と口を封じてしまうことは絶対に違うと思うけれど、それを裏返して解釈し「何でもかんでも、意見を表明しなければいけない」というわけでは決してない。
これは逆説的だけれども、政治から距離をおくことで、政治の力学に巻き込まれないですみ、その結果として、また異なる形である種政治的な力を持つことができるという状態も生まれるわけですから。
実際、村上春樹さんは、それを見事に体現している方だなと思います。
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で、ここでまた冒頭のweb3の話に戻っていくのですが、僕はこの個人の多面性と、web3が紐づくことで、きっとまたおもしろいことが起きてくるんだろうなと思っています。
これによって何が起きるかといえば、相手とは距離を起きつつも、支援はできるという状態が生まれてくるはずなんですよね。
分散的に投票行動ができるような意味合いがそこに生まれてくる。しかもそれは、完全匿名において可能となるんですよね。
自分の社会的立場としては、到底言及や応援をすることはできない場合でも、そこに静かに相手の背中を押すことができるという状態を作り出すことが可能となるわけですよね。
それがものすごく革新的だなあと僕は思うのです。ここが今日一番主張したいポイントです。
それは村上春樹さんのような作家が、作家の立場から社会問題にコメントを出さないのと同じ論理です。
でも、一方で静かに支援はして、見守ることはできるわけですから。
現に、今のweb3やNFT界隈においては、そのような投資家のひとは一定数混ざっていると思います。
そうじゃないと、大口支援のひとたちのお金の出どころも説明がつかない。少なくとも、普通のサラリーマンではありえない金額を出している匿名アカウントも数しれず、です。
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従来であれば、出資関係の問題で、個人の名前で追跡可能な状態であった場合には、それは間接的に政治的な発言の表明にあたってしまう恐れがあった。
本人にその意図がなくとも、そうやって勘ぐられる可能性が世間の中で出てくると思えば、二の足を踏むことにつながってしまう。
でも、そこに風穴を開けるのがweb3の仕組みであり、その部分が曖昧にできるから、足長おじさんのように支援できるというような。
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じゃあ、そうすることによって一体何が起きるのか。
社会的な地位をすでに築いている人間が、またより一層儲かるということなのか。
いいえ、違います。ここで言いたいことは、決してそういう話ではありません。
そうすることで、それぞれがより一層、自分のやるべきことに集中する状態がうまれてくると思うんですよね。
ここにまた、まだ気づかれていないめちゃくちゃ大きなの革新性があると思います。
僕は、個人のなかに、複数の意見を持つ「私」がいることは当然だと思っています。それをひとりの人格として顕現する必要はまったくない。
つまりお金を出す側は、そうやって自分の中にいる、また異なる立場からの「私」が賛同する相手に支援が可能となって、その結果として、自分の本業にも集中できるし、支援される側も、より多くの支援を獲得できる。
いい意味で、お互いが近づきすぎなくても良いわけですよね。
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つまり、お互いに距離を取り続けられることにこそ、価値や意味がある。
それは、政治に決して巻き込まれないという態度に対して、ある意味でものすごく政治的な価値があることと同様に、です。
結果として、お金というエネルギーの分散化が起きる。水路が一気に変わる。お金は血液だとすれば、その血液の流れ方が一気に変わるわけですから。
ここに真の価値があるなあと。静かな革命と呼べるほど。
ゼロかイチかの話ではなくて、その中間的な携わり方が無数に生まれてくるはず。このあたりに気づかれ始めたら僕は大きな社会的な変革が起きてくると思う。
それまでには、もう少し時間はかかるとは思うけれど、理論的にはこのようなことが起きてきても、何もおかしくない状況はすでに整いつつある。
なかなかにややこしい話だと思われてしまったかもしれませんが、そんなことを考える今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となっていたら幸いです。