ここ最近、「傷」についてずっと考えていると、自分中に存在する無意識な思い込みとして、傷は「悪」であり、傷があればそれは癒やすべきものだと思ってしまいがちだなと感じます。
ただ、それもどこまでが真実なのか、結構怪しいところもあるよなあと。
言い換えると、なぜ、傷は癒やされなければいけないと僕らは無意識に思い込んでしまっているのか。
それよりも、「これ以上、傷つけないこと」のほうを優先することのほうが大事なんじゃないか。
今日は、一風変わったそんなお話です。
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この点、傷を癒した方がいいという考え方は「そこに苦しんでいる人がいるのだから、手を差し伸べるのが当然だ!」みたいな話であるはずで、根本的には「愛」から生まれてくる感情だと思います。
もっと言うと、キリスト教の「隣人愛」みたいなところに、その起源みたいなものもあるはず。
しかし、そもそもひとは「愛する」という行為をした結果、お互いに傷を付け合ってしまうのだということもあると思います。
純粋無垢な悪の心から、他者を傷つけるってことはあまりしないのではないでしょうか。
そうじゃなくて、愛としての裏返しとしての行動が、時に相手を深く傷つけてしまう場合の方が圧倒的に多いはずなんですよね。
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親子関係における「傷」なんて、本当にわかりやすいところ。
基本的に、親は子供を愛するからこそ、子供をいとも簡単に傷つけてしまう。子供の将来を見据えた、より高次の目的の達成のためなら傷をつけても構わないと思っている。
でもそれは、本当に必要なことなのか。
それよりも子供に向けるべきは「愛」よりも「敬意」の方なのではないか。
この点、以前もご紹介したことのある、内田樹さんの新刊『だからあれほど言ったのに』の中に、とても面白いお話が語られてありました。
以下で引用してみたいと思います。
私は未熟な親として子育てをしてきて、ある時点で「子どもを愛すること」と「子どもを傷つけないこと」では、「子どもを傷つけないこと」のほうを優先させるべきではないかと考えるに至った。
「どうやって子どもを愛そうか」を工夫するより、「どうやって子どもを傷つけないようにするか」を工夫するほうが大切だと思うようになったのである。
というのは、「子どもを愛しているから」「子どものことを心配して」「子どもの将来のことを考えて」という理由で子どもを傷つける親が実に多いということを骨身にしみて知ったからである。
「愛している」という感情的事実は、愛している当の相手を傷つけることを制御できない。
それだったら、「愛している」ということにはあまり意味がないのではないか。それなら、むしろ「傷つけない」ことのほうを気づかったほうがいい。
その結果、私は子どもに対して「敬意を持つ」ことに決めた。
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マッチポンプとまでは言わないけれど、強烈な癒やしやケアがあればあるほど、構造的に社会に「傷」が増えるような気がしています。
それは、医療が進歩して、医者も儲かるからという理由で、身体にとっての毒である飲食物や生活習慣も同時になくならない、それどころか増え続けている構造なんかにもとてもよく似ている。
「毒と医者」はお互いがいがみ合っているようで、実は蜜月関係であるというような話です。
つまり、世間に存在する愛が大きくなればなるほど、悪も同時に大きくなるのではないのかが、僕の今の仮説です。
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さて、冒頭の話に戻すと、傷を癒やすというのは、もともとキリスト教的な発想。
「手を触れたら、傷が癒える」それはものすごく理想的に思えることです。でもそれは、このように傷の増殖と、表裏一体にあるように思うんですよね。
それよりも、内田さんが書かれている通り、「傷つけない」ことのほうに注意を向けることの方が、実はいま重要なんじゃないかと思います。
先日もご紹介した、アジールの定義「無防備であっても傷つけられるリスクのない場」の話にも、なんだか関連しているなと思います。
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だとしたら、僕らが本当に自覚的になるべきは「生きることは、四苦八苦であること」を真に理解することなのかもなと。
人は生きていれば傷はつくものであって、傷と付き合いながら生きていくことが当たり前であり、なるべく致命的な「新しい傷」を増やさない方向性の模索のような気がします。
仏教はそもそも、生きるは苦しみである、と開き直った教えだとよく語られます。まさに一切皆苦、ですからね。
仏教は、あるがままに見定めた。キリスト教のような理想論には踏み出さなかった。
それは言い換えると、愛によって無駄に傷を増やすな、ということなのかもしれない。
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この点、養老孟司さんが語る「四苦八苦」の話が、非常に参考になるなと思います。
過去に何度もご紹介したことのある書籍『生きるとはどういうことか』から再び引用してみたいと思います。
現代社会では、苦が悪であるという暗黙の常識が広がっている。私はそう見ている。その象徴が痛みであって、痛みは「ないほうがいい」。しかし痛みがなければ、生存が保障されない。そこを忘れているのである。痛む状態は、周囲からみれば「気の毒」なのであって、かならずしも「悪」ではない。痛みを撲滅することは、できないし、するべきではない。ところが現代人の潔癖症は、かなり進行している。だから痛みそのものを、取り除いてしまおうとする。そういう人たちは、「苦があるのは、悪い状態だ」と倍じているに違いないのである。
(中略)
そういう人たちに、人生は四苦八苦だと説いても、意味不明だと思われるに違いない。四苦にせよ、八苦にせよ、じつは人の自然であって、存在して当然のものなのである。それを知ることが自分と折り合うことで、自分と折り合えば、人生は生きやすくなるのである。
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昨日のブログにも書いたように「自分の物語よりも、相手の物語を大切にして優先する」それがケアであり、優しさであることは間違いありません。
それゆえに、僕らはそんなケアに憧れる。
しかし一方で、一見するとドライでクールに思えて、ときに他者を見捨てているように感じられる仏教的な世界認識の方が、総合的に眺めた時には「苦しみ」に悶える人たちが世の中から減っていて、全体的な納得感は増幅しているとも言えるのではないか。
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で、そのときに大切なことはきっと「原理」ではなく、お互いに「作法」を身につけるということなんだろうなあと思います。
愛という「原理」従おうとするから、人間は一番残酷な手段に出られてしまうわけだから。それは宗教戦争が歴史の中で何度も証明している。
それよりも、傷つけない、そのための作法を考えることが今とても大切な気がしています。
先ほどもご紹介した内田さんの書籍には、全く別の文脈において「作法」の重要性の話が語られてありました。
以下で再び本書から引用してみたいと思います。
「作法」の対義語は「原理」である。驚く人がいるかもしれないが、そうなのである。
原理を掲げる人は、いついかなる場合も首尾一貫している。どのような問題も原理の名において一刀両断する。相手が強くても弱くても、論理的でも没論理的でも、精密でも粗雑でも、原理の人はそんなことを気にしない。
「作法」は集合的な経験知によってかたち作られる。「身につける」というそれに続く言葉から知れるように、作法は身体に深くに内面化する。内面化し、血肉化してはじめて使ことができる。
「身につける」というのは「叡智的に理解する」ということとは違う。だから「身についた知恵や技術」はうまく言葉にすることができない。
「言葉にすることはできないのだが、動作としてはできる」のである。驚くことはない。
私たちは幼児の時から、そういうプロセスを繰り返して身体の使い方を覚えてきたのだから。
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昨日のブログにもつながる話ですが、僕は真の意味で「包摂」されている状態を担保するためには、「対話」の扉が開かれていること、問い続けることを諦めないひとたちが存在していることが、とても大事だなと思う。
しかもそれは、対話の「原理」の理解しているひとたちが集まっていれば安心という話ではなく、対話の作法を身につけたひとたちが集まる空間である必要があると思うのです。
現代は「対話が大事!相手の話を聞くことが大事!」とビジネス文脈でもしきりに語られるようになってきたけれど、でもそれは原理の話であり、作法として身につけている人は非常に少ないなと思います。
喩えるなら、野球のルールを熟知しているひとたちはたくさんいても、彼らを野球場に集めてみたところで、それで楽しく野球のゲームが円滑に行われるかといえば全くそうではない、みたいな話なんです。
そうじゃなくて、野球をプレーし、実際にその作法を新体制を伴った形で身につけている人たち、そんな「野球の作法」を獲得しているひとたちが、集まってもらうことに意味がある。
その時に、「原理」の言語化なんかできなくていい。
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そのためには、一人ひとりがプレイヤーであることがとても重要。
つまり、一人ひとりの対話に踏み出す勇気、が何よりも大切になってくる。
当然ですよね、実際にやってみないと作法は身につかないわけですから。
その時に、「原理」の言語化なんかできなくていい。
マウンドやバッターボックスに立つ勇気こそが大事であって、それを持ち合わせながら、実践経験を積みながら、ともに作法を身につけていくことが本当に大事だなあと。
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そして、ここまで書いてきて、今日の話を全部ひっくり返しますが、その勇気は、たぶん目の前の相手を見事に傷つけるんです。
ただし、それは練習の最中における突き指みたいなもので、「許された危険」みたいな話でもある。
明確に痛々しい生傷にはなるけれど、それは道端で突然襲われたり、親から子へ愛の名のもとにつけられた傷とは性質が全く異なる。
お互いに、より成長するための必要な過程のように捉えられるはずなんです。
その経験を通すことによって、お互いにどうすれば「傷」ができてしまうのかも、しっかりと身体感覚を通して理解できるようになっていくはずです。
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このような過程を通して、これ以上傷つけわないことを前提として対話する作法を身につけることが、今とっても大事なんじゃないか。
それが僕の仮説です。
そして、そもそも苦しみや傷は常に当間のようにあるものだと理解をして、「ケア」をしすぎない勇気も同時に持つこと。(ここに葛藤が生まれるけど、その葛藤こそが成長の源泉)
それよりも、新たな傷を生み出さないための敬意と礼儀、そしてその作法を獲得していくこと。
そんなことを考える今日この頃です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。