最近、内田樹さんの新刊『勇気論』を読み終えました。

「また内田樹さんの新刊!?」と思われるかもしれないですが、ご本人も「月刊内田」と揶揄されてしまうほどに、毎月書籍を出している状態だと書かれていました。

で、僕はそれでも、なるべくなら目を通しておきたいなあと思い、できる限り読んでいます。そして当然、その中でも刺さるものと、刺さらないものがある。

今回は、ものすごく刺さるほうの1冊でした。Wasei Salonの中でも近々、読書会も開きたいと思っているほどです。

それぐらい、本書は現代を生きる僕らに対して、とても大事な話をしてくださっているなあと思っています。

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ただ、この1冊を1日のブログの中でで紹介するのは、とてもむずかしい。今後も、何度も引き合いに出す本になるなあと思っています。

今日のブログで、特にご紹介したいのは、「不快な刺激」の話について語られていた部分です。

自分の仕事が、ブルシット・ジョブだとわかったうえで、ブルシット・ジョブに耐えているからこそ自分は高給をもらえているんだとというコンサル業の人の話。

そのような話を引き合いに出しつつ、これはかなり自滅的な生き方だと思いますと前置きした上で、内田さんは以下のように語られます。

以下で、早速本書から引用してみたいと思います。

それは「不快に耐える」「無意味に耐える」「不条理に耐える」というのは、自分の感受性を鈍感にすることなしにはなしとげることができないタスクだからです。
不快な刺激の多い環境に置かれると、人は自分の五感の感受性をあえて鈍くすることで身を守ろうとします。目に入る視覚入力が不快であれば、目を閉じる。耳に入る聴覚入力が不快であれば耳を塞ぐ。悪臭がすれば息を止める。皮膚に触れるものが不快であれば、身体を硬くして、なるべく感じないようにする。満員電車に乗っている人たちがその典型ですね。目は手元のスマホ画面に固定し、耳にはヘッドセットを詰め込み、身体をかちかちに固めて周りの人にできるだけ触れないようにしている。あれが「外部からの入力をゼ口にしょうとしている人」の姿です。


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さて、なぜ唐突にこの話をブログの中で書きたくなったのか。

それは最近、僕自身が『関心領域』という映画を観たからです。

この映画は、アウシュビッツ収容所の真横で、当時豪華な暮らしを営んでいたドイツ人家族のお話。

内容はびっくりするほど、つまらないです。「とりあえず話題作だから観にきました」みたいなカップルたちが、映画の途中で席を立つほどです。

僕の率直な感想も、とてもつまらなかった。それぐらい単調な家族の物語がダラダラと続きます。

ナチスのユダヤ人大虐殺の話だからと言って、残虐なシーンなんてものも1回も出てきません。血一滴すら流れない。

ただ、特徴的であるのは、映画の音声の背景には、隣接している銃声や叫び声が聞こえ続けている、その強烈なコントラストなんです。そして、登場人物たち全員が、とにかくひたすらにその音を無視し続けているという、とても不気味な映画。

さらに、映画を観ていると、最初はあんなにも異質だったその音声に、観ている自分自身も慣れてくるというメタ構造。

もう、同じ映画は一生観たくないけれど、観てよかったなあと心底思う映画ではあります。

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で、これが今日の話ともダイレクトにつながるなあと思ったんですよね。

不快な音が聞こえ続けてくるアウシュビッツ収容所の隣で、優雅な生活をしているドイツ人家族。

ものすごく異質で、不気味に感じてしまうのだけれども、現代人もやっていることはほとんど一緒だよなと思います。

内田さんの話の中で満員電車の例が出てきましたが、多分数十年後には、現代人のその異質さは、似たような形で描かれてしまうのかもしれません。

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話は少しそれますが、最近はコロナがあけてローカルに暮らしている人たちも、また頻繁に都会に訪れる機会も増えてきました。

その度に、旅の土産話のように聞かされる話として、彼らはすぐに「都会は疲れる、よくあんな騒音と悪臭が立ち込めるところに住めますね」という話をする。

都会で暮らしている人間からすると「毎回田舎マウント取ってんじゃねーよ、うるせーわ」って思うはずで、僕自身はどちらも体験しているから、あまりこの話をしないように心がけているけれど、でもそれぐらい田舎暮らしの彼らにとっては、都会に来るたびにアラートが鳴りまくっているということでもあるわけですよね。

逆に言うと、そのようなアラートを完全に切って生きてしまっているのが、都会人ということでもあるのだと思います。

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少し話がそれますが、人間って基本的には生まれながらにして絶対音感で、聞こえている音域も広いそうです。

でも、それだと色々と生きづらい局面も多い。重要な音と、重要じゃない音を聞き分ける必要もあって、ゆえにおとなになるにつれて不要な音を切り落としているそうです。

だからこそ、目が見えなくなると、それがまた復活もしてくる。それは、伊藤亜紗さんの本『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読むと、とてもよくわかるかと思います。

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で、話を元に戻すと、耳を澄ませるが、なぜ大切なのか。

内田樹さんは以下のように続けます。

外部からの入力をできるだけ少なくする生き方をデフォルトにすると、とても困ったことが起きます。それは「自分を呼ぶ声」が聴こえなくなるということです。
「井戸に落ちかけている子どもの声」も、「主の声」も、聴こえない。ですから、「惻隠の心」も発動しないし、一神教信仰も立ち上がらないし、「天職」にも出会えない。


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このお話は本当にそう思います。惻隠の心の話も、天職(コーリング)の話も以前、このブログの中で書いたことがあります。

そのうえで、勇気も正直も親切も、すべて最終的には「心耳を澄ませて、無声の声を聴く」という武道の「ノイズ論」に集約されると語られて、ここから本書はクライマックスに入っていくので、その部分は、ぜひ実際に手にとって読んでみて欲しいなとおもいます。

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今日ここで強く自覚してみたいなと思うのは、僕らは今この「聴く」という作業に対して、ものすごく意識的になる必要があるんだろうなあと思うのです。

本当は、聞けるセンサーを持っているのに、聞けない状況にあえて自らを陥らせて、自分たち自身でブルシット・ジョブを増やし続けて、自らの感覚機関を追い込んでいるような状態。

そして、それで得られるのは偽りの成功でしかない。逆に言うと、今のような社会にとって、都合の良い成功を、成功だと思わされているということでもあるんだと思います。

最近、「実際の成功者の定義」みたいな話がTwitter上で話題になっていましたが、あれもひどく、バカバカしい議論だなあと思いました。そしてなぜか賛同している人が多いことにも、とっても驚かされる。

あれは、どうありたいか、ではなく、どうしたらハックできるか、みたいな話に終始しているだけですからね。そうではなく、自らのアラートに対して、もっともっと自覚的になりたいものだなと。

そして、そのためには自分が本当はどうありたいかに、耳を澄ませる必要があるなと思います。そうじゃないと、社会的な成功を目の前にぶら下げられて、ひたすらにハックさせられるだけの人生を生きることになってしまう。

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じゃあ、そうならないためにはどうすればいいのか。

これには様々なアプローチがあるとは思いつつ、まずは自分とは異なる状況にいる他者が聞いているものを、丁寧に聞かせてもらうことのような気がします。

しかも、できれば相手のホームに訪れて、です。

先日、鹿児島にサロンメンバーで訪れた際に、鹿児島に暮らし出迎えてくれた山田さんが「よく東京に住めますね」と現状、東京に住んでいる僕と三浦さんに聞いてきました。

毎回会うたびに、山田さんはこの話を振ってくるので、正直心の中では「うるせーな」と思いつつも「そりゃあ、そう感じて当然だよな」とも、同時に本当に強く思うのです。

それぐらい鹿児島という土地とのギャップが凄まじい。これは相手のホームに訪れて、相手が大切にしている物語を横で直接見せてもらった上で共有しないと、ただの鬱陶しい意見でしかないはずなんです。

つまり、全く違う地域、違う物語で生きているコミュニティメンバーと対話によって開かれていることで、自分が無意識のうちに完全にシャットダウンしている感覚みたいなものに、ふと気付かされるわけですよね。

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そうやって、違う音に耳をすませている人々と日々交流をして、自分が無意識のうちに聞き落としてしまっている音に対しても、自覚的になることが大事なんだろうなあと。

本書のあとがきの部分で、あらゆる戦争も、差別も、ジェノサイドも、起源までたどると、「他者が他者であることの不快」に耐えられない人間の弱さにたどりつきますと書かれてあり、「勇気はこの弱さとまっすぐに向き合い、自分を少しずつ強くするための足場です。」と書かれてありましたが、この話も本当にそう思います。

他者が他者であることの不快とは、自らが聴こえなくなっている感覚に気付かされることでもあると思います。

そのお互いの盲点を指摘し合いつつ、影や死角となってしまっているところを照らし合うことが、コミュニティ、特に居住地に縛られないオンラインコミュニティのすばらしさだなあと思っています。

「うるせーな」だけで終わらせない関係性。

相手の大切にしている物語を眺めながら、「そりゃあそうだよな」と思える腹落ち感が、今とっても大事だなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。