昨日、イケウチオーガニックの京都ストア10周年イベントに参加したら、ものすごく感性鋭い大学生から、
「鳥井さんは、Podcast番組『なんでやってんねやろ?』の中で、ディレクターとしてどんな役割を担われているんですか?」と聴かれて、ふと「何もしていないですね」と答えてしまいました。
自分でも「あー、自分何もしていないんだな」と思った。でも、それが今とても大事な気もしています。
基本的には、僕は仕事においても全力で何もしないことを良しとしています。
このWasei Salonの中においても、特にメンバーのみなさんに対して何かを能動的に働きかけたりもしない。
もちろん、それは何も考えていないわけではなく、日夜、徹底して考え抜いているつもりです。
そのために必要な知識も知見は日々収集し続けて、経験や体験も得られるようにと、自分で小さな実験も日々積み重ねている。
そして、いつだって助けを求められたら、全力で臨戦態勢をとれるように、日々自らを鍛えているような感覚も強くあります。
でも、そのうえで、何もしないということを本当に心から大事にしているんですよね。
じゃあ、それは一体なぜなのか。今日はそんなお話を少しだけ。
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思うに、今の世の中は、なんでもかんでも提案しすぎだと思うんですよね。
昨日の「ドリルを買いに行ったら〜」の話もまさにここにつながる。
ただ道具としてのドリルを買いに来たひとに対して、コンサルティング、メンテナンス、サブスクサービスをセットで提供すること、それがおもてなしやホスピタリティだと思われている。
相手が求めているアウトプットを先まわりして、すべてを把握をし、それを完全に提供しようとしてしまう。
でも、世の中がそっちに向かえば向かうほど、大事なことは、その逆であると思うんですよね。
つまり、全力で”提案しない”ことのほうが、ものすごく大事になってきているフェーズがまさに今だと感じます。
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それは、過去に何度もご紹介してきた心理学者・河合隼雄さんの「冷たく抱き寄せ、暖かく突き放す」という態度にもつながる話だと思っています。
どうしても、わかりやすく傷ついているひとが目の前にいると、いとも簡単に暖かく抱き寄せてしまう。
何か明確なニーズとしての欠落を持ち合わせている人に対しては具体的な提案だってしたくなる。
それが現代においての理想的な姿であると認識されていることは、生成AIの挙動なんかを見ていればとてもよくわかるかと思います。
質問形式で聞いてもいないのに、こちらの意図を察知して、何でもかんでも先回りして答えてくれますよね。
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そして、そんなふうに優しく暖かく抱き寄せられると、相思相愛のズブズブな関係ができあがる。
それは、人と人ともそうですし、企業と企業においても全く同じことだと思います。
でも、当然そんなズブズブな関係は、無理が生じやすいわけです。そして逸脱があると耐えられないから、提供側の想定を超えると、すぐにはしごを外す。
そして相手が求め過ぎだ場合や、クレーマーみたいになったと感じたら、途端に冷たく突き放すことになるわけです。
でも現代において、それが一番悪手であることは間違いない。それは長続きしないし、結局のところは、誰のためにもならない。
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この点、河合隼雄さんは、『人の心はどこまでわかるか』という本のなかでとても大事なことを語ってくれています。
同じく臨床心理士の方から、「私たちは引きあげようとしたり、押しあげようとしたりせず、でも、そこから逃げることなく『そこにいる』ことが大切なのでは……と思っていますが、いかがでしょうか」という質問を受け、とてもいい指摘をしてくれていますと語りながら、まさに私は自分の仕事のことをよく『なにもしないことに全力をあげる』であると語っていました。
これは本当にそう思うんですよね。
カウンセリングの世界だけでなく、仕事面においても、人間関係全般においても、とても大事なことがここにある。
ついつい何かしたくなる自分が、真の目的を見据えて、相手の立場に立って「なにもしないことに全力をあげられるか」が問われているのだと思います。
なぜ何もしないことが大事なのか、河合隼雄さんは以下のように語ります。
それというのも、ほんとうに深い苦しみ、悲しみを抱えている人と、心も体も一緒にいるということは、こちらにとっても苦しいことだからです。
しかし、逆にクライエントの側からしたら、ほんとうにつらいとき、悲しいときには、よけいな慰めなど言ってもらう必要はなく、一緒にいてもらうだけでいい。ところが、治療者のほうがじっとしていられなくなって、ついよけいな慰めの言葉をかけたりしてしまうのです。これは、一種のごまかしにすぎません。
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ただし、ここまで読んできてくださった方々の中には、「何もしない」なんて、そんな簡単なことなら自分でもできると思うはずなのです。
でも、”全力であること”が何よりも大事なんですよね、本当に、ずっと考えている必要がある。尋ねられたときには、しっかりとすぐに自分の意見も語れること。
そして、それを求められても簡単には言わないこと。
それよりも、相手のことをもっともっと信頼する。相手の中にあるもの、自然とを引き出せるように尽力をする。
そうすると、ものすごく真剣に考えていることの、95%は無駄に終わるわけです。それに耐えられるかどうか。
多くの人は、そうやって頭に浮かんだことをすぐに言いたくなってしまう。そしていいアイディアだと思ったら、もう言いたくて言いたくてたまらなくなっちゃう。
その黙る作業が拷問に近いから、「どうせ言えない」と思ってしまえば、そもそもひとは考えなくなるわけです。
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そして、もう自らが鍛錬する必要はないと思ってしまう。ただ黙って一緒にいればいいんでしょとなりがちです。
でも、もし自分の立場だったら、そんな頼りないひとに共にいてもらったところでまったく嬉しくないと思うんですよね。
「この人は日々勉強をしている、この人なりの明確な答えを持っているのに、あえてそれを用いようとはしないで、こちらを尊重してくれている」と思えることに励まされる何かがあるはずで。
本当にわがままだとは思うけれど、僕はそういう人にこそ、ただ黙って自分の隣にいて欲しいと思ってしまいます。
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でも、とはいえ僕を含めて人間は弱い、本当に弱いです。
何か考えると、それをついついアウトプットしたくなる。
僕の場合は、毎日ブログを書くという行為は、そのアウトプット欲を満たすために行っているのかも知れないなとも思うのです。
逆に言うと、何もしないために、毎日必死で書いているということでもあると思うんですよね。質量保存の法則ではないけれど、左辺と右辺の数字を合わせるように。
そして、河合隼雄さんも講演会の音声なども含めて、膨大な量の書籍を残しているけれど、それは考えたことをアウトプットするためだったんじゃないのかなあと。
クライアントのそばで考えて考えて考え抜いて、でも「何もしないことに全力をあげている」から、書くことがたくさんある。
そして、その具体的な対話の内容から、書くときは一歩引いた目線で眺められるから、抽象的な思考にまで落とし込むように丁寧に時間をかけて、あくまで一般論や抽象論まで引き上げて昇華することもできる。
また、そのような文章に落とし込むという作業を通して、何度も行ったり来たりすることによって生まれた深みのある意見にもなっていく。
それゆえに、「冷たく抱き寄せ、暖かく突き放す」なんて普遍の真理みたいな言葉が、ポロッと生まれてくるのだと思います。
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そして何よりも、これはAIには絶対できないことで、これができるのは未だに人間だけなんですよね。
AIはいくらでも優れたアイディアを提案できてしまいます。それこそ、人間よりも圧倒的に優れた提案を24時間365日、年中無休で行ってくれます。
でも逆に、AIはそんな「提案」しかできない。
AIが「何もしない」を実践した瞬間、僕らはそこに「実在感」や「臨在感」のようなものは感じられない。ただのエラーだと思うはず。
「あー、いまこのひとは共にいてくれているんだ」という実感は、やっぱり人間にしか感じられないわけですよね。
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河合隼雄さんは、本書の中で、ある高校生の発言も合わせて紹介していました。
河合さんのカウンセリングを受けて家に帰った高校生が、「家族からどうった?」と聴かれたときに「不思議な人に会ってきた。どこへ飛んでいっても、ちゃんと”はた”にいるようなひとだった」と語ったそうです。
「果たして自分がそこまでできたかどうかわかりませんが、ある意味では、それこそわたしたちの最終目標かもしれません。」とも同時に語られていましたが、まさにこのような実感を味わってもらうこと。
相手の力を信じる、そのうえでちゃんと”はた”にいつづける。
その本人の中にあるものが一番の最適解だと思えること。足りないものはない、既にすべてが相手の中に揃っている。
あとはそれに本人が気づくことができるように、こちら側が共にいるだけ。
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相手の内発的動機によって、みずから能動的に変わろうと思えること、それが本当に大事なことだと思います。
だからこそ、僕らのような人間、他者の仕事のうえでの悩みや苦しみにしっかりと寄り添い、共に解決していこうと努める人間にとっては、この臨済感を発揮できるように、自らを鍛え上げる必要があると思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。