今朝、佐々木俊尚さんが共有していた、まとめ記事がすごくおもしろかったです。
ドリルを欲しがる客は、本当は穴を欲しがっているので、それを踏まえたビジネスを始めるというお決まりの話のせいで、ドリルを買いに行くと、そのコンサルティングや、メンテナンスサービス、サブスクなどがくっついてくると。
詳しくはぜひこちらのまとめ記事を実際に読んでみて欲しい。
まとめ記事の中にかかれてあって、皮肉めいているなと思ったのは、このようなサービスは顧客の要望第一主義のように見せかけて、一方で自分たちが想定していない使い方や何かしらの不測の事態が起きた場合には、すぐにはしごを外してくるという指摘。こちらも本当にそのとおりだなあと。
自分たちの想定を逸脱してくるものは、すぐに排除しがち。
これも先日もご紹介した、哲学者・宮崎裕助さんの話と繋がる部分。演出レパートリーから外れた自分だけの道を選ぼうとした途端に、いきなり荒野に立たされているような状況に突き落とされてしまう。
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で、このドリルを欲しくて買いに行ったのに、その結果がありとあらゆる角度から与えられてしまうといのは、僕らが本当に求めているのは、結果ではなく、その過程であるというわかりやすい事例だなあと思います。
これは以前もご紹介したかもしれませんが、ドストエフスキーの名言に「コロンブスが幸福だったのは、アメリカ大陸を発見したときではなく、それを発見しかけていたときだ」というものがあります。
そしてその信念の内実として、ドストエフスキーが付け足しているのは「大事なのは、生命なのだ、生命のみ。たゆまず、どこまでも生命を発見しようとすることであって、けっして発見それ自体ではない!」と。
言われてみると、そのとおりだろうなあと思いますよね。
アメリカ大陸を見つけたその瞬間が、確かに喜びの最高潮に思えるけれども、それを喜びたらしめるものは、必死にアメリカ大陸に近づいているタイミング、その過程があるからであるはずで。
現代は、そのタイミングにおいて、コロンブスにアメリカ大陸を一方的に与えている。
しかもすでに開拓されきた、ものすごくきれいなアメリカ。コロンブスが航海に出る前、どの船が良いかを選んでいるタイミングにおいて、そんなアメリカを差し出してくる。
なんてバカげた話だって思うんだけれども、でも実際に僕らがいま市場で行っている取引や交換というのは、まさにそれです。
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以前もご紹介したけれど、本当は、過程を求めているのに、今はサブスクで、コンテンツだけが届き続ける状態なんですよね。
だから、現代はワークショップやDIY教室など、その過程を味わってもらうための、ものづくり系の機会を提供する場なんかも密かに人気なわけです。
ただ、この点において、また新たな問題点が発生する。
そして、今日の主題ははまさにここからです。
その過程やプロセスというのは、そのほとんどが無駄な作業なんですよね。砂を噛むような努力だったりもするわけです。ほとんど95%は無駄なんですよね。
でもそうすると、次に起こる問題は、その95%の無駄な苦役にたえられなくなった人々、そのプロセスの退屈さや無惨さに対しての「傷のなめ合い」が始まる。
「よしわかった、DIYなんだろう、穴をサブスクで手にいれるのではなく、自分でつくってやろうじゃないか!」と腕まくりをして、ホームセンターでドリルを買ってくる。
その結果、YouTubeなどでわかりやすく解説されている作り方なんかを観ながら、生み出され「いびつな作品」が完成する。
そして、本人も薄々これだけ時間とお金をかけるなら、プロに頼んだほうが早かったんじゃないか、そのほうがコスパやタイパが良かったんじゃないか。
でも、そこにはもうすでにアイデンティティが投影されてしまっている。自分の努力と時間を注ぎ込んだものは、もはや単なる物体ではなく自己の一部となってしまっているわけです。
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また、周囲も、せっかくお父さんが頑張ってつくった日曜大工の品物には、大っぴらに率直な批判できないような状態になる。
つまり、そこには暗黙の了解、一種の社会的タブーが生まれるわけです。
そして、このような状況が積み重なると、開き直った「DIY最高!」という父さん同士が一箇所に集まって、どうみたってガラクタに過ぎないものを、みんなで称え合うようになる。
そこでは、どう考えても素人仕事にすぎないものに、価値があるように称え合う素振りをしあわなくちゃいけなくなるわけです。
そして、このような集団は、往々にして「野の医者」のような存在が音頭を取ることになる。彼らは素人のDIY作品をお互いに奨励し合い、その「傷の舐め合い」の場を率先して提供するわけです。
「一生懸命頑張っているんだから、バカにしなくてもいいだろう!よく頑張ったね、偉いね!」というような言葉で、そこにいる参加者を無条件に励まし続ける。
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これはたとえば、被災地に贈られる千羽鶴みたいな話ですよね。
良かれと思ってつくられた素人のバフは、現場の人間にとっては完全にデバフになっているにも関わらず、それを指摘して批判すると「みんなが頑張ってつくったんだから、そんなこと言うなよ!」という話になる。
確かにもう少し言葉遣いには気をつける余地はあれども、とはいえ、不要なものは不要なわけです。
でも、そういうことを指摘すればするほど、あなた達とはわかり合えないということで分断をしていく。
このような環境では、当事者の思想に寄り添うもの以外の意見が発言しづらくなる。
それよりも、互いの傷を察知し、ケアし合うことが何よりも最優先される。
たとえ「包摂の中の否定」であっても、つまり建設的な批判であっても、その場では攻撃的な言葉として排除されてしまう。結果として、余計に、集団の成長や進化を妨げる要因となってしまう。
で、そのDIYの空間は、どんどん自己欺瞞的になってきて、ともすればスピ系みたいな方向にも簡単に流れてしまうから、それを軽蔑した目で眺めながら「絶対にあっちにはいかないぞ」って周囲の人達は固く心に刻むわけです。
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このような集団に属する人々の厄介さは、彼らが本来の目的を見失っていることにあると思います。
例えば、文章を書いている人々であっても、もう自分の書いた文章を読んでもらいたいとは思っていない。
それよりも、プロセスを重視することに価値があると信じ込み、ものづくりをしているような状況。その自分の、アイデンティティを肯定して欲しい、ただ褒めて欲しい、という欲望になってしまっている。
自分で作った商品を売りたいとも思っていない。でも、それは本当にもったいない。
そもそも実力主義一辺倒、人気なものがより人気になっていく構造それ自体に反旗を翻してしまっているため、そのようなアドバイスも無視しないと整合性が合わなくなるのわかる。
砂を噛むような努力や戦いの螺旋からおりたくてこっちに来たのに、その努力を再び自分がしなければいけなくなるわけだから。
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ただひとついえることは、それを客観的に眺めている人たちは、その傷の舐め合いに対して呆れ返って、バカにし、あんな状態になるぐらいなら、既製品を買ったほうがいい、となる。
自分は効率的に金を稼いで、プロに任せたほうがいい、となる。
そして皮肉なことに、このような反応が、世の中をさらに効率重視、既製品やパッケージ商品中心の方向に押し進めてしまう。
みんながコストパフォーマンスと時間対効果の良い既製品を求めるようになるのは、ある意味で当然の帰結なのだと思います。
それは、プロセスが大事だとわかっていないということではない。
むしろ、「プロセスが大事!ものづくりやDIYが大事!」という正しい主張を実践している人々が、集団で「傷の舐め合い」を始めてしまうがゆえに、逆説的に既製品文化を強化してしまっているのだろうなと。
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自分で「ものづくりしろ」というのは、本当にその通りです。
先述のドストエフスキーが語るように、コロンブスが幸福だったのは、アメリカ大陸を発見したときではなく、それを発見しかけていたとき。
その時に「他人の目を気にするな」も、本当にその通りなんです。
そして欧米の一神教的な価値観、具体的には神との関係性だけを唯一絶対視し、そのほかのすべてを相対的な出来事として否定しまえる強さがあれば、それでもいい。
でも、日本人は常に相対的なんです。空気にながされてしまう。
それは先日のヨブ記の話でもご紹介した通り。
その証拠に、一神教の欧米人は、真冬でも自分が、今日は暑いと思って神との間において嘘偽りがなければ、Tシャツとビーサンで町を出歩くことができる。まわりが毛皮のコートやダウンを着ているようと全く関係ない。
一方で空気によってすべてを決めてしまう日本人は、自分はどれだけ暑いと思っても、周囲に合わせてなるべく冬らしい格好をしてしまう。
そして、自分にとっての心地よさを追求し、Tシャツで歩いているひとを見かけると、まわりが酷く白い目でみるから、自分はあんな風には浮かないぞって心に決めるわけです。
ここにすべてが現れている。「ものづくり」やDIY文化においても、まったく同じような構造がここにある。
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繰り返しますが、そのプロセスこそが「共同性」という幸福をもたらしてくれる目的性であることは決して間違っていない。
かといって、じゃあそれをもとにして傷のなめ合い、ケアばかりをしていて本当に良いのか。
それだと、いつまでたっても「真の共同性」には到達しない。予定調和的で、誰かにお膳立てされた「セレモニーとしての幻想の共同性や自由」にしか辿り着けない。
そして、そのような盲目的な「傷とケア」の態度が世の中に蔓延ればはびこるほど、逆説的に一番コスパ・タイパを重視した世の中に、人々を向かわせてしまうことになる。
このあたりの話は本当にむずかしいなあと思う。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/09/14 15:56