タイムラインにも書きましたが、先日イケウチさんの京都ストアイベントに来ていた参加者の方で、僕のVoicyを全部聴いてくれているという方がいらっしゃって、それだけでも十分嬉しかったのだけれど、それ以上に嬉しかったのは「おのじさんとの対話回が特に好きです!」と言ってもらえたことが、本当に嬉しかったです。
Wasei Salonに参加してくれていて、おのじさんのことを知っている方はもちろんだけれど、おのじさんのことを全く知らない方であっても、おのじさんの魅力は絶対に伝わるはずだと信じてきました。
そのうえで、おのじさんとの対話回はすでに全7回配信してきたけれど、それがちゃんと伝わっている方がいるんだと知れたことに強く喜びを感じたんですよね。
自分の内容を褒めてもらえるより、こういうタイミングが地味に一番嬉しいです。音声は人柄がちゃんと伝わる、本当に不思議なメディアだなあと思います。
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で、そのときに言ってもらえて、もう一つ心に響いたのは「いつも仕事の中で考えていることが、自分だけではなかった、考えても良いことだったんだと気付いた」という感想で、ご自身の過去を振り返るように、しみじみと語られた言葉が非常に印象的でした。
それを聞いた瞬間に、なんだかとっても満たされる感覚がありました。
Wasei Salonは「私たちの『はたらく』を問い続ける」をテーマに運営しているオンラインコミュニティです。
このコミュニティ内における僕のブログや、それをもとにしたVoicyによる音声配信は、それぞれの場所で考え問い続けている人々を決して孤独にさせないために続けてきている感覚が強くあります。
言い換えれば「問い続けているのは、自分だけじゃない」と感じられる場をつくることが大事だと思っているんですよね。
人間生きていれば誰もが、日々の仕事や暮らしの中で「本当にこれでいいのだろうか…」という不安を抱えることはあるかと思います。
そんな中でも、勇気を持って考え続け、問い続けようとする人々がいることが励みになる瞬間ってきっと必ずあるはずで。
それが、僕だけで力説していても説得力は限られると思うのですが、おのじさんとの対話回を聞いて、よりそう思ってもらえたことが、本当に嬉しいことだなあと。
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この点、多くの人は現状に不安があると「改宗」みたいなことを望みがち。
転職なんかにおいても、そうですよね。
「こっちの宗教よりも、あっちの宗教が良いのではないか」と思っている人たちに対して、「こっちにおいで、こっちのほうがいいよ!」と、その不安を煽っているだけでもあるように僕にはみえてしまうときがある。
でもそれは結局、昔のトレンディドラマで行われていたような交際相手をとっかえひっかえすることが恋愛強者であると煽っていたときと、同じである気がするんですよね。
若者がドンドン貧乏になり、恋愛自体が不人気な現代においては、それが単純に「職場」に変わりつつあるだけのように見える。
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そして、大抵の経営者や発信者は、その構造をはっきりと理解しているから「今あなたがいる場所は間違っていて、こっちに来れば、その不安や悩みがすべて解決できるんだ」みたいな発信をしがち。
新興宗教まで行かなくても、そうやって「生きづらさ」を抱えている人に対して「この会社に来ればすべて解決する、インターネット上ですべては完結できる」みたいな見せ方をしてしまう。
そして、ユートピア的な組織やコミュニティを作り出すことって、今このタイミングにおいて不安に感じているひとに、今の暮らしや仕事を投げ出してでも、こっちに来いと言い募ってしまうんですよね。
それがものすごく言葉として響いてしまうから。
ただ、たとえ100%の善意からの発信だったとしても、それはやっちゃいけないことなんだろうなと僕は思っています。
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もちろん自分自身も過去にはそうやって、自分たちの理想郷をつくることが大事だと思っていた時期もあったけれど、それをやっちゃうと、結局は元の木阿弥だと感じています。
一方で、「今いる場所で咲きなさい」って現代では強く批判されがちな言葉でもあるし、実際に誤解を生みやすい言葉ではあると思うけれど、それでも、それぞれの今いる場所で咲く、そのための勇気づけのほうが圧倒的に大事なんだろうなあと。
そのための「道」なんだろうなあと思うのです。
以前も語った「パン屋で仏道」の尊さを最近は強く痛感します。
それぞれが「二重の道」を歩めることを実現しようと努めること。
つまり、現実の仕事や生活を全うしながらも、同時に自己の成長や理想の追求を続けること。これらを実現しようと励むことが、本当に大切な道のりなのだと思うんですよね。
そうじゃないと本当の意味で、社会は変わっていかないんじゃないかと真剣に考えています。
つまり、「こっちに来いではなく、そこにいろ、ただ、魂だけは売り渡すな」ということを言いたいわけです。
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そのうえで、僕が日々書いたり語ったりしていることが、誰かの心に響き、「自分の問い続けていることは間違っていないんだ」と、その場にいながら思ってもらえることは本当に嬉しいことなのです。
また、それに付随して、Voicy上での対話回を聞いて、鳥井だけではない、おのじさんのような中学校の学校の先生をやりながらでも、日々の仕事に忙殺されずに、ちゃんと向き合っている方がいるんだと知ってもらえる機会を提供できていることに、深い喜びを感じます。
もちろんそこには、Wasei Salonというオンラインコミュニティも背後に存在し、それぞれの現場で日々奮闘している人々がその空間に集まり、互いの葛藤や悩みを共有し、対話する場となっていることもとても大切で。
このような場があることで、日本全国、さらには世界中でそれぞれの場所でそれぞれの「はたらく」を実践している日本語話者のみなさんを「ひとりにしない」ことが初めて実現できる。
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で、この考え方は、言い換えれば「安易に徒党を組まない」ということの重要性でもあると思っています。
徒党を組むことの負の側面なんかは、最近の都知事選や自民党総裁選などの選挙戦などを見ていても明らかだと思います。
これは以前もご紹介したかも知れないですが、ジャン=ジャック・ルソーも徒党を組むことを決して良しとしませんでした。
現代政治がすべて徒党を組んで実現されている中で、頑なにそれを拒否し続けたらしいですが、その理由が今ならなんとなく理解できます。
僕が目指しているのは、徒党を組まないけれども、深いところでしっかりとつながっているという関係性。
「あの人も頑張っているから、自分も頑張ろう」「簡単に諦めてしまわずに、徒党を組むことにも逃げずに、この場で私自身が問い続けよう」と思えるような関係性をどうつくりあげるのか。
気づけばこれが、僕の長年の課題になりつつあり、また本当に少しずつではあるけれど徐々に、そして着実に現実になりつつあるんだなあと思いました。
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このようなコミュニティ感覚はきっと、かつての雑誌文化なんかにも近いと思っています。
特に初期の頃の雑誌が持っていた特質に近いものがあると思います。
例えば、花森安治が創刊した「暮しの手帖」も、まさに当時はそのようなコミュニティがしっかりと存在していた雑誌だったのだと思います。
花森安治は「日々の暮らしを大切にすることが、最終的には戦争をなくすことにつながる」という趣旨のことを語っています。
文芸評論家の吉田健一の名言でもある「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」みたいな話にも近い。
徒党を組むことではなく、それぞれの「暮し」においてより良くするためにはどうすれば良いのかを雑誌を通じて発信し続けたひとりだと思います。
一見すると、あまりにも穏やかだし、効果が薄いように思えるかもしれません。しかし、実はこれこそが、本質的な変化をもたらす方法なのではないかと僕は真剣に考えています。
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最後に今日の話をまとめておくと、
徒党を組んで社会変革をしようと意気込むわけでもなく、それぞれがそれぞれの持場で、考える問い続けながら、そのときに帰る場所があること、決してひとりじゃないこと。
似たような葛藤や不安を抱えながらも、今日もどこかで実践して前向きになり、拗ねたりすることなく、淡々と取り組んでいるひとがいるということが、励みになること。
これは結局、「行って参ります、おかえりなさい」の空間という話につながると思います。だから今日の話は何も目新しいことを言っているわけではない。
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ただ、実際にそのような人たちがVoicyのリスナーの皆さんの中にもいるということが知れて本当に嬉しかった。
決して数が多くなくても、急進的な勢いがなくても、そのような人々が、ひとりでも増えることがとても大事なことだと思っています。
逆に、それを捨て去って、傷や不安をケアしてあげると気軽に呼びかけて、一つのことに目を向けさせて、勢いにまかせて走り出した瞬間にすべてが台無しになってしまうんだろうなあと。
そうすれば、すぐに全体主義のような方向に傾き、日本人特有の「空気」が絶対視されるような世の中になっていく。
これは自分自身でコミュニティ運営をやってみて、その中で生まれてくるむずかしさや誘惑なんかも理解したうえで、やっと本当の意味で実現するべき方向性みたいなものが定まったなあと思う。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/09/16 19:31