企業に限らず個人発信でも、ありとあらゆる新しいものが生み出されて、溢れかえっているような世の中です。

オフライン・オンライン問わず「なぜこれを始めたのか?」その理由が本当に至るところで声高に語られているような日々です。

でも一方で「なぜこれをやらないのか」という理由というのは、意外と語られません。

それも当然ですよね、スタートさせるわけではなく、辞めるわけでもなく、ただ始めないという無作為の状態なのですから。

客観的に見たときに、そこに何の変化もない。

ただ僕が思うのは、この「やらない理由」が語られないというのは、なんだかもったいない気もしています。

なぜなら、そのようなやらない理由に関する内容のほうが、実はその人や、その法人の信念や確信部分を明確にあらわしていたりもするからです。

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本来、その人の立場や法人の立場なら、ある特定の事柄をやっていてなんらおかしくない、もしくは必ずやっているべきことであるはずにも関わらず、あえてやっていない場合、手を出さない理由というのは、間違いなく本人(たち)の中には存在しているわけで。

この点、昨夜、美容室「らふる」の代表をされている中村さんとお話をしているときに、美容室なら「コレをやろう!」と野心をもっていても当然なことを、全くやられていないので、僕が不思議に思って聞かせてもらったら、あえてやっていないというその理由について丁寧に語ってくれました。

僕はそのお話に、心底強く感銘を受けたんですよね。

「後日、何かしらの形でこの話をコンテンツ化しましょう!」と固く約束をしたので、ここではその具体的な内容を言及することは避けますが、ソレを聞いて、より一層らふるさんや中村さんのことが好きになったし、きっとこの「やらない理由」を知ることによって、またらふるさんのことを好きになってくれるお客さんや、ファンの方々は増えていくように思います。

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そして、結局のところ、近年、毎日更新される「始めました!」ということであっても「◯◯をやめましたを、始めました!」というのが、今の時代のステートメントの中心だったりもするかと思います。

つまり、新しく何かをやりはじめたその理由の話であったとしても、何をやらないかという話をしている場合も多いわけですよね。

それは現代が、大抵のことがやりすぎて起きてしまっている問題が山積みの時代だからです。

漠然と放置されてきた問題というよりも、過度に行き過ぎた施策を行うことによって、起きている「弊害」や「歪み」のほうが社会問題の中心になってきていて、その課題解決がメインの仕事になりつつある。

僕らよりも少し上の世代が、がむしゃらに資本主義に突っ込んでいった結果、見落としていったゴミを、いま再び拾い集めるのが、僕らの世代の仕事みたいになっているんだとも言えそうです。

たとえば、ファストファッションの生産背景の問題点などは、とてもわかりやすいですよね。

で、そのためにまずは過度なことを「やめるところから」なわけですよね。

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これは完全に余談ですが、最近、令和世代の新しい会社や仕掛けなんかを見ていると、「従来ならあたりまえのことを、あえてやらない」の「従来」の中に、続々とインターネット関連の事柄が入ってきているなあと感じています。

具体的には、HPをつくらないとかSNSをやらないとかOTAに掲載しないとか、一昔前なら「マスメディアや、昭和型の企業が必ずやることを、やらない」が主流だったのに、今はアンチ平成という感じなんですよね。

それが個人的にはすごくおもしろい。インターネットというマスに対してのアンチで始められたものが、もはやアンチとされている状態が少しずつ起きつつある。

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さて、話をもとに戻すと、本当はもっともとっと、やらない理由が素直に語られるような世の中になるといいなあと僕は思っています。

でも、そのようなお話をことさら述べ立てるのは、野暮だと感じる理由というのも、一方でとてもよくわかるのです。

何か新しいことに挑戦し、これまでになかったことをやることが評価される世の中ですし、やらない理由を語るのは、弱者のルサンチマンのようにも聞こえなくもない。

また、そんなつもりはなくても、やっているひとを暗に否定したり批判したりしていると感じられてしまうかもしれない。

そのような様々な誤解を生むのは本望ではないという、ある種の「優しさ」なんかも、そこには含まれているのだと思います。

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このように、いろいろな複雑な要因が絡まって、やらない理由を語るという行為自体が、あまり奨励されるような事柄でもないのかもしれません。

ちゃんと大局観を持って、グッと踏みとどまり、やらないでいられるような視野の広い人たちだからこそ、猪突猛進をせずに一歩立ち止まって考えているわけですから、そのような野暮に見えること自体を、積極的に行わない理由も本当によくわかります。

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だから結果的に、ひっそりと「あえてやらない」ことになるわけですよね。

ただ、そうすると、その背後にあるような想いや信念というのはやっぱり外部には伝わっていかないわけです。

だから、それでもこちらが気になって仕方がないために昨夜の僕のように、野暮であることを承知で、ズケズケと自分から質問し「なぜやっていないのか?」を言語してもらうと、僕らはソレを初めて理解することができる。

そうすると、学びや発見というのが本当にたくさんあるんです。

そこに、思想や哲学のようなものが存在していることも、より深く伝わってくる。

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この点、基本的に、宗教と呼ばれるものだって、戒律がメインであるということを考えると、一見すると人間であれば、やったほうが良さそうなのに(人間なら誰しもがやりたくなるようなことなのに)それをやらない理由のほうが大体的に語られていて、そこにこそ宗教の価値があったわけで。

最近、Audibleで岩波文庫から出ている『ブッダのことば』も聞いているのですが、これもまさにそういう感じの本になっています。

やらないでいたほうが良いことを「これでもか!」というほど、ブッダのことばで語ってくれている。

だからこそ、このやらない理由を、ちゃんと語られる場所がいま本当に重要なんだろうなあと思います。

誤解されない、野暮だと思われない、他者を批判していると思われないように、最大限注意を払って、です。

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たとえば、Wasei Salonの読書会でたとえると、読書会の中では必ず「おもしろかったポイント」と同時に「モヤモヤしたポイント」も語り合うわけですが、その両方を話すことで、より深みが増していくというあの感じです。

あのとき、決して誰も著者や内容を批判したくてクローズドな空間で愚痴を語っているわけではなくて、素直に、私にはここがあまり腑に落ちなかったという部分を共有しているわけですよね。

そこから始まる、気付きや発見が、お互いの視野をより広げてくれることにもつながっていくわけでもありますから。

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「やらない理由」を語るためのコンテンツや、空間と場におけるコンテキストの共有が本当にいま大切だと思います。

それが僕のような人間の役割だと強く思ったし、実際に僕がつくりたい場でもあるなあと思いました。

なんにせよ、やらないところに、ひとの美学や矜持が、あらわれるというのは間違いない。

これからはそんな部分の解像度も高く、お互いに認識し合える場をドンドン耕していきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日の話が何かしらの参考となったら幸いです。