昨日、こんなツイートをしてみました。


では、「インターネット」と「インターネット的」の違いとは具体的に何を指しているのでしょうか。糸井さんは本書の中で以下のように書かれています。




インターネットと「インターネット的」のちがいというのは、 字面 では単に“的”があるかないかのことなんですが、これは重要なポイントになってきます。 「インターネット的」と言った場合は、インターネット自体がもたらす社会の関係の変化、人間関係の変化みたいなものの全体を思い浮かべてみてほしい。

引用元:インターネット的(PHP文庫) 


これは、カール・マルクスの「上部構造と下部構造」のような話に近いと、僕は思っています。

 下部構造とは、人間の活動や生産様式など産業の在り方を指しています。一方で、 上部構造とは、精神やその在り方を決める倫理、宗教、法、哲学、文化などを指している。

そして、マルクスは「下部構造が、上部構造を規定する」と考えていました。

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今から20年以上前、インターネットの普及によって下部構造が大きく変化し始めていました。その結果として「インターネット的」という上部構造が生まれてきていた。

きっと糸井さんはその機運を察知して、一冊の新書にまとめたわけです。

そしていま再び、下部構造の部分が「Web3」の登場によって大きく変わろうとしています。そうなると当然、上部構造だって大きく変わってくる。

でもいつの時代も、中年のおじさんたちは上部構造はそのままに、下部構造だけが変化すると思い込んでしまっている。

だからこそ、人間の価値観はそのまま据え置きで、技術の話や未来予測の話に終止してしまうのでしょう。

でも、そんなわけがないんです。倫理や宗教、法や哲学、文化などの上部構造は、その時代における下部構造こそが規定しているのだから。

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これは決して難しい話なんかではなく、もっと簡単に言えば、時代によってどんな装いや言動がイケてるのか、クールなのか、オシャレなのか、カッコいいのかは常に移り変わっているということです。

そしてそれは、その時代の若いひとが勝手にランダムで生み出しているのではなく、その時代の下部構造によってすべて規定されてしまっているのだということ。ここがマルクスの慧眼です。

たとえば、昨日書いたような「私有から共有へ」という話も、若いひとには一瞬にして理解できてしまう。

なぜなら彼らは旧来型の下部構造にはほとんど馴染みがなく、新しい下部構造のほうから先に触れているからです。

でも中年の方々は、このような価値観の変化を「けしからん」と思ってしまう。つまり「悪」だと断定してしまうのです。そもそも、そこに良し悪しなんて存在しないのに。

繰り返しますが、その良し悪しを規定しているのは「普遍な真理」でもなんでもなくて、ただただ従来の下部構造に規定された上部構造に過ぎないのですから。

にもかかわらず、自分が青春時代を過ごしてきた時代に主流だった下部構造に規定された上部構造を、世界の普遍の真理だと思い込んで執着してしまっている。

それは、以下のツイートでも書いた通りです。


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たとえば「映画を倍速で観る、テレビ番組を切り抜きで観る」というような行動も中年のおじさんたちからすると「けしからん」となるのだけれども、一体何がけしからんのかが若いひとには全くわからない。

切り抜きコンテンツ(下部構造)に触れ続けた結果、「タイムパフォーマンスが何よりも大事」(上部構造)という新たな価値観に移り変わってきているだけなのだから。

だから僕は「Web3」の登場で産業が大きく変化することによって、人々の価値観がどのように変わっていくのかという「Web3的」な変化のほうに強く興味がある。

今はまだまだ少数派であっても、数十年経過すると、新たな下部構造に規定された上部構造を持ち合わせている人間の数が、旧来型の下部構造に規定された上部構造を持ち合わせている人間の数を上回るのは間違いない。

そのときに世界のマジョリティが一気に入れ替わり、パラダイムシフトが起きます。ここを今から想定することができて初めて”既に起きた未来”を認知できるようになると思うのです。

繰り返しますが、そこに良し悪しなんかは存在しません。すべては諸行無常。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。

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