日本にはたくさんの豊かな自然資源があります。
とても美しい景観やキレイな水や空気、山の幸や海の幸などなど。
これまでは、これらの資源を日本中に流通させるためには、一度誰かが「私有」することで、間接的に「共有」していくしかありませんでした。
具体的には、誰かが一旦私有してそれらを「商品化」し、市場にのせる必要があった。より多くのひとの手に届けるためには、そんな市場の交換機能を上手に用いるほかなかったのだと思います。
所有者というのは、その仲介人としての役割を担い、その手数料を得ても良い人間だという感覚があったはずです。
だからこそ、「より多くの人々に、この自然の恵みを届けたい」という高邁な理想と、個人の金儲けが両立できる時代が、ここ数十年間は続いてきたのだと思います。
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しかし、これからはWeb3的な概念や思想、それを実装するための具体的なシステムの普及によって、共有する手段が良くも悪くも誕生してきてしまいます。
そうなると、そのような「本音と建前」のダブルスタンダードが許されなくなってくるのは間違いありません。
これは、ネイティブアメリカンと白人の「土地所有の概念の違い」にも近いのかもしれません。
ネイティブアメリカンが白人たちから「土地を売ってくれ」と言われたときに、以下のように手紙を送ったという逸話が残っています。
ワシントンの大首長が 土地を買いたいといってきた。
どうしたら 空が買えるというのだろう?
そして 大地を。
わたしには わからない。
風の匂いや 水のきらめきを
あなたはいったい どうやって買おうというのだろう?
参照:絵本『父は空 母は大地』(寮美千子・編訳 篠崎正喜・画 ロクリン社刊
Web3の概念に親しむ若者が増えてくれば、この逆のことがまた起きてくる可能性がある。
「なぜ、共有できるものなのに、あなたたちが私有しているの?」と。
しかも、そのビジネスを行っている理由が高邁な理想であればあるほど、より一層「言っていることと、やっていることが全然違うじゃないか!」という批判の対象となってしまう。
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もちろん「本当に共有にしてうまくいくのか?」という問いは生まれてくると思います。
しかし、その実現可能性が見えてきたことは遅かれ早かれ試さざるを得なくなるのが、人類の歴史です。
もし、新しい仕組みやシステムを使ってうまく共有していくことができれば、そのまま本当に共有へと移り変わっていくでしょうし、うまくいかなければまた私有に逆戻りし、その過程で血みどろの利権争いが再び起こるのでしょう。
でも、歴史が一方通行ではなく、そうやって何度も揺り戻しがありつつも、大きな方向では「私有財産制」を認めてきたわけだから、これからまた大きな方向性として「共有」に戻っていくことは間違いないと思います。
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いま、地方で一次産業に携わっているひとたち、戦後の行動経済成長を通じて、バブル期には多くの土地を買い占め、楽天などのネット通販でドンドン伸びていった地方の事業者たちは、もしかしたらWeb3という概念の普及の中で、一番大きな変化を迫られる事業者のひとつとなるのかもしれません。
「それをあなたが独り占めしているのはおかしい。みんなで共有しよう」というまったく新しい価値観を持った若者たちが、地方に押し寄せてくる可能性があるのだから。
どれだけ耳心地の良い「ストーリー」を商品に付与して、市場に流通させてみたところで、それを独り占めしている時点で、これからの若者たちから総スカンを食らう可能性がある。「ダウト」って言われてしまう。
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最近、自分自身がWeb3の概念を学んでいる中で、地方のビジネスを経営しているひとの公演を聴きながら猛烈に違和感を感じたので、自己の中で起きた心情の変化を今日のブログにも書き残しておきました。
誰もこんな予測はしていないかもしれないけれど、これから5〜10年後、地方の産業のトレンドはガラッと変わってしまっている可能性がある。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。