スマホって、ものすごくパーソナルな空間ゆえに、そこに割り込んでくる「不快」に、人々は耐えられなくなっているなと感じます。
これはもちろん今話題の「赤いきつね」のような表現に対して批判する側もそうですし、批判される側もそう。
批判する甲高い声もまた不快だから、余計に対抗言論を掲げてしまうということなんだろうなと思います。
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でも実は、いま日本の中で一番公共的な空間がスマホの中。霞が関でも、渋谷でも新宿でもない。
そんなスマホが、個々人の家の中どころか、寝室、さらにはベッドの中にまで持ち込まれている。この実態とのギャップが、現代の特殊性だなあと思います。
スクランブル交差点のど真ん中で寝ようとしていたら、そりゃあ通行人のほとんどすべてが敵に見える。「ここにソレがあることは許せない」という感覚にもなりがちですよね。
で、この快・不快は人によって、全く異なるからこそ、いちばんインスタントな共感が得られやすいものにもなっている。
「肌に合う・合わない、生理的に無理」という話が一番仲間を見つけやすいし、同時に一番の敵も見つけやすい。
なぜなら、共感できないひとも当然いて、なんならその不快こそが、快であるというひともいるわけだから。
それは、ウールのタートルネックがチクチクして嫌いか、逆に暖かくて大好きか、みたいな話なんかと一緒。ウールのタートルネックのセーターに客観的な良し悪しなんて存在しない。
本当に「蓼食う虫も好き好き」です。
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で、こういうことを漠然と考えると、Wasei Salonメンバーで神主さんでもある山田さんに教えてもらった「ケガレ」の話を思い出します。
「鳥井さんのお家の布団のうえに、落ち葉が落ちていたら嫌でしょう、それがケガレです」と。
もちろん、もっと小難しく説明することはできるのだろうと思うけれど、僕はこれを聞いたときに初めて、日本人にとってのケガレの感覚が腑に落ちた。なるほどなあと。
本来そこにあるべきものじゃないものがあるときに、日本人はケガレを感じる。
逆にいうと、この感覚が逆なでされれば、目の色を変えて怒り出す。
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このケガレの話を思い出すたびに、養老さんのゴキブリの話も同時に思い出してしまいます。
例えば養老さんは『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ 』という講演録をまとめた書籍の中で、
講演会のホールで足元にゴキブリがはっていたというお話をしていました。そして、これは人間社会にとっては典型的な不祥事なんだ、という話をしています。
なぜなら、ゴキブリはこういう空間には出てきてはいけないのであって、じゃあそれはなぜいけないかというと、それは「自然のもの」だからです、と。
「それゆえに、そういうものが出てきますと、大の男が目をつり上げて追いかけていって踏みつぶしていますが、それはこういった自然の排除という原則がいかに強く都市空間では貫徹されているかということを示すように私には見えるわけです」と語られていて、この話はとても強く印象に残っています。
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他にも本書の中に掲載されている別の講演のなかで、また似たような話をしているので、そちらから少し引用してみたいと思います。
あのゴキブリを追っかける執念というのは私は非常に興味があるのでいつも見ています。どうしてあんなか弱い生き物が気に入らないのかなあと思って見ていますが、しかしそれはやっぱり、その裏には非常に深い、何か根の深いものがあってですね、もしそういうものを容認すると、つまりゴキブリのような存在を容認いたしますと、私どもは自分たちがつくり上げてきた、いわゆる近代文明、高度先進社会というものを否定すること、根こそぎ否定するようなことになると思っているんじゃないかという気がいたします。それはすなわちゴキブリが自然の象徴になっているということです。
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養老さんは、頻繁にこの話を各書の中でしています。
これを初めて読んだとき、僕は最初は全然意味がわからなかった。「意識の世界の中に、自然の象徴?一体何をいっているんだ、このおじいさんは?」という印象でした。
そうじゃなくて、単純に気持ちが悪いから、だろう。
でも、それこそ意識の産物なんですよね。その証拠に、自分の意識の外の世界で、そんな虫たちが蠢いていても僕らはまったく気にしない。
このことに気づくまでに、ものすごく時間がかかりました。たぶんこれを読んでいる人の中にも、まだあまりピンときていない人のほうが多いと思います。
でも、これは今日のお話と本当に似たような話。
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で、余談ですが、僕がK-POPの戦略が非常に上手だなと思うのは、「これは音楽です」と言いながら明らかなポルノ的な中毒性を、世界中にばらまいているところだったりもします。
YouTubeのトップ画面で、K-POPのサムネイルが出てきたら、僕は迷わず淡々と消している。このチャンネルを、オススメに表示しないということをずっと淡々と行っている。
やっていることは、害虫駆除と一緒。でもずっと消えてくれない、無限に現れてくる。
じゃあ、なぜ何度も消しても、僕が方向づけようとするアルゴリズムをかいいくぐって出てくるのかと言えば「これは音楽だから」という印籠があるからなんですよね。
YouTubeのルールには、何も抵触していませんよ、と。
でもそれは紛れもなく、一種のポルノ的中毒性を持つものとして、聴覚なかも含めて身体感覚全体がハックされてしまっている。
だからこそ、これだけSNSやYouTubeのアルゴリズムに乗っかって、世界中に広がっているんだと思います。
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で、これって、なんだかノンアルコールビールみたいだなとも思います。
ノンアルコールビールも「これはお酒ではありません」というもの。でも明確に、ビールと銘打っているものでもある。
だから、ケガレの話は「ノンアルコールビールを仕事中に飲んでいて怒られた」というSNSで定期的にバズる話とも、とてもよく似ている。
「これには、アルコールが入っていないんだからソフトドリンクと一緒だろう」というのは、本当にそのとおりなんです。
そうやって、合理的な話、機能面から科学的に考えるのが、現代人の特徴でもある。
「なぜコーラを仕事中に飲んでいても怒られないのに、ノンアルコールのビールだと怒られるのか。どう考えてもそれはおかしいし理不尽だ!」というのは至極真っ当な反論ですし、それを合理的に反論することは難しい。
でも、それは合理的な判断というよりも、怒る側のケガレの感覚と、バッティングしているんだろうなあと思います。
あるべきものじゃないものがそこにある。まさにケガレであり、それは、お昼の仕事場にはあってはならないものであり、忌避されるべき対象であるということ。
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じゃあ全員が、アルコールの含有量だけを基準にして、合否を判定するように理性的に考えればいいのか、それだけで万事解決なのか、といえばそうじゃないんですよね。
だったら、賞味期限が切れて、もう廃棄するしかないおにぎりはゴミと同じなんだから、踏んでもいい、もう人間が食べられないんだから。
でも僕ら日本人の大半は、おにぎりという形状をしている以上、それを直接は踏めない。
もしそこで平然とした顔で踏んでいる人間がいれば、サイコパスだなと感じるし、そんなサイコパスな人とは、共同体を築いていけないなと直感的に感じる。
同様に、畳の上も、土足では歩けない。つまり、こういう汚れの感覚を共有しているというのが文化や宗教観であって、人々はその感覚を頼りにしながら、共同体を構築している。
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きっと、アメリカ人は平気で畳の上を土足で歩くはずなんです。
逆に日本人は、自らがキリスト教信者でなければ「踏み絵」のようなものも、強制されればカンタンに踏める。でも、アメリカ人はそんな日本人を見て、サイコパスだと思う。
このように、異なる文化圏の人々が持つ「あるべき場所」の感覚は大きく異なるんだろうなあと。
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決して、合理性だけでは、ひとは共には生きていけない。「共同体をつくる」というのはそういうことなんだと思います。
「システムで排除すればいい、それがアルゴリズムと法律で粛々と判断されればそれでいい」という話でもないわけですよね。
そんなことをすれば、必ずルールをハックするひとたちがまた必ず現れるから。
「これはルールには違反していない。だから認められるべきだ」こうした言い分がまかり通る世界では「ケガレ」の感覚と見事にぶつかる。
見方を変えれば、そのケガレの感覚が歯止めとなって、コミュニティや共同体が築かれているのも、一方で紛れもない事実です。
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だからこそ、僕たちはお互いに一定程度は寛容になりつつ、自由の相互承認をしながら、このお互いの「快・不快」や「肌に合う・合わない」という感覚と一体どう折り合いをつけていくかを考え続けなければいけない。
意識を優先し、理性的に論破をして、はい終わりじゃないんです。なかなかにむずかしい話だなと思うけれど、合理性だけでは、人は共に生きていけないことだけは確実だと思います。
これらのバランスをどう取りながら生きていくか。これからの社会を考える上で、重要なテーマだなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。