先日、キングコング西野さんが、Voicyの中で「暇な人間はなぜ悩むのか?」というテーマで配信をしていました。

非常に素晴らしい内容で、ざっくりと僕なりに要約すると「悩んでいる人間は、悩んでいるわけではなく、「悩み」という行為を介して生まれてくる他者とのつながりを欲して、むしろ悩みを作り出しているんだ」というお話です。

アドラー心理学のような「目的論」的な発想ですよね。

人が怒るのは、眼の前の相手を屈服させたくて、意図的に怒りを作り出している。引きこもりたくて、引きこもらざるを得ない身体的状況をあとから作り出しているという、あの話です。

あとは「無能の証明」のような話にも似ている。自らの無能を自らで証明することで、その悩みを結節点にしながら、他者とつながれるかもしれないという期待が、そこに生まれてくるわけですよね。

この西野さんの配信は、本当にその通りだなあと思いながら聞きました。

最近読んだ本の中で言えば、ドストエフスキーの『地下室の手記』はまさにそのような苦悩や葛藤を描いていた作品だったなと思います。

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ただ一方で、『地下室の手記』を読み終えてみると、「忙しさ」も全く同様の構造を持っているなと思います。

きっと「お前たちも一緒だぞ!」ということを暴きたくて、ドストエフスキーはこの作品を書いたんだろうなあとさえ思わされます。

具体的には、睡眠時間を削って、カレンダーには一切空白もなく、忙しく駆け回っていれば、本来向き合わなければいけない「自己の課題」と向き合わずにいられる。

自分は社会から必要とされ、なおかつ社会に貢献している、社会を一ミリでも良くしていると思えれば、そこで至極個人的な「人生の課題」を考えなくても済むわけですから。

それっていうのは、やっていることはスケジュール帳の空白を自らの孤独を埋めるようにドンドン埋めていく女子大生なんかと全く同じ。

それのおじさん、おばさんバージョンが30代〜40代にかけて、とにかく忙しく働いたり、子育てに熱中するということなんだろうなあと思います。

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で、それが現代資本主義の明確な罠でもあるなあと思います。

「本来向き合ったほうがいいんだろうな、これと向き合わなければダメなんだろうな」と思いながらも、資本主義下において「稼げているから、評価を得られているから、社会に貢献できているから」という免罪符を得て、自己の課題は見てみぬふりができる。

これがもし、悩んでいるだけの人間であれば、何も生産しておらず、社会的地位も貯蓄額なんかも増えず、人的資本・社会資本・金融資本が一切増えていかなければ、「さすがにこれはまずい…」と思えるけれども、忙しくてかつ結果が出てしまえば、より一層、いまのままの働き方でいいんだと現状肯定できてしまう危うさがあるなと思います。

本来ひとというのは、「立ち止まるとき」にその孤独の中で、自己の課題と向き合う、向き合わざるを得ない状況に追い込まれる。

この「孤独の効用」については、為末さんのVoicyが素晴らしくまとめてくれていたので、ぜひこちらも合わせて聞いてみてください。


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で、ここで少し余談かつメタ的な話になってしまうのですが、このようなどちらかに振り切った発信をすると、本来その情報が届くべきではない人たちが集まってくるジレンマがあるなよなあと思っています。

ここが、僕が自らの発信をするときに悩む大きなポイントでもある。

「具体的には、あなたは一刻も早く葛藤から抜け出したほうがいい、それはただの目的論的な悩みに過ぎないのだから」客観的にそう感じさせてくるひとほど、誰よりも早く「葛藤が大事」という意見に飛びついてくる。

その逆もまた然りで、あなたは今立ち止まったほうがいいと思うひとほど、「走り続けろ」という意見や「暇だから悩むんだ」という意見に誰よりも早く飛びつく。

どちらも自らの現状肯定をしてくれる意見だから、です。

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つまり何が言いたいかと言えば、僕の言ってることが正しいと思っているひとには、もっと行動が必要だし、僕の言っていることが間違っているなと思っているひとは、もっと葛藤が必要だという非常に、ややこしい話なんです。

今日のこの話も、悩みから立ち上がったほうがいいひとが「やっぱり悩みに居着こう」とするきっかけを与えてしまっているだろうなと思いますし、このあたりは本当に発信の仕方がむずかしいなあと思ってしまいます。

一方で、それが嫌だからといって「そうじゃない、挑戦だ、行動なんだ!」と言えば、一度は「立ち止まったほうがいい」というひとたちが今度はワラワラと集まってくる。

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こんなふうに、本当にそのひとに必要な情報とは真反対のひとたちが吸い寄せられてくる構造が世の中には存在しているなあと。

賢い人たちは、この構造にすぐに気が付き「じゃあ、自分にとってどっちが都合のいいお客さんや観客になるのか」という観点から判断をして、その人達を引き寄せやすい情報を発信する。それが賢いビジネスマンの振る舞い方です。

結果として、ポジショントークになっていかざるを得ない。

もちろん僕のこの意見だって、ぐうの音も出ないほどに、そんなポジショントークのひとつです。

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さて、話をもとに戻して、今日のこの話を通じて僕は本当の「勇気」とは、このあたりにあるんじゃないかと思っています。

つまり、そうやって自らの「悩み」を捏造したり、忙しくして見ないふりしているもの、自らの無意識が目的論的に作り出した隠れ蓑に対してしっかりと自覚的になること。

そして、チラチラ視野の片隅には入ってはいたけれど、ずっと放置してきたものに対して、少しずつでも着手してみること。

それは喩えるなら、家の中で洗ったほうがいいんだろうなと思うような洗濯物や食器みたいなものであって、ずっと自分の人生の中にそんな歪な存在感を放って存在しているものに着手してみること。

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逆に言うと、現代の世の中一般的に言われている「勇気」とは、どちらかと言えば「度胸試し」や「チキンレース」みたいな話になってしまっている。

そういう洗濯物や食器なんてどうでもいいから、外に出ろ!と促すものになっている。

そうすると、誰もが、その「小さなチクチクした何か」から目を背けたいから、「勇気」という言葉が、ものすごく都合の良い隠れ蓑になるわけですよね。

しかも、そのほうがなんだか刺激も強そうだし、人生がガラッと変わるんじゃないかという期待なんかも得られるわけですから。

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でも、実際には、ずっと見て見ぬふりをしてきた家族の問題と向き合ったり、みずからの地元や故郷、共同体の問題と向き合ったり、そんな「何か」と向き合うことのほうが、生きるうえでは本当は大事なのかもしれない。

それは、もしかしたら何気ない「ごめん」という一言を伝えることかもしれないし、「ありがとう」の一言かもしれない。勇気とはそんな、もっともっと灯台下暗し的なものだと思います。

村上春樹さんの作品は、ここを本当に上手に描いている。『スプートニクの恋人』も『ダンス・ダンス・ダンス』も『国境の南、太陽の西』も基本的にはすべてそう。

そして、それらは見つけたときには、既に完全に失われているという、あの話にもつながっていきます。


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ただし、こういう話をするとすぐに心理学者や精神科医のようなひとびとは、自己の「トラウマ」と向き合え、という話をする。

そして、その時の題材がまさに村上春樹文学なんかを用いるから非常に厄介だし、余計にややこしいなあと思います。

僕はその提案に対しては、明確にノーと言いたい。

僕は、トラウマなんかに向き合う必要はまったくないと思う。

トラウマと向き合うことは必要ないという話は、『人生の壁』で養老孟司さんがものすごくわかりやすく言語化してくれていたのでそちらをご紹介しておきます。

どうも真剣さと深刻さを混同している人がいるように思います。つまり、その人の心の闇とか、過去の辛い体験を正視することを勧める風潮です。そういうものと正面から向き合わないと前へ進めない、といった意見はよく目にします。     とくに学者はそういうことを言いがちなのですが、向き合う義務なんてありません。誤魔化すのも一つの手です。それで自分自身の気分が良くなるならいいではないですか。     無理やり辛い体験などを思い出す必要はないのです。忘れていて日々が暮らせるのならそれでいい。


これも本当にそう思います。

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無理やり辛い体験などを思い出す必要はない。

忘れていて、日々が暮らせるのならそれでいい。でも、勇気を出すことは大事だと思う。

つまり、深刻にはならずに、「真剣」になる勇気が大事なんじゃないか、というのが今日の僕の仮説です。

それこそが、勇気の本質なんじゃないかと僕は思う。

忙しさにかまけていて、自らの人生の課題から逃げ続けていれば、人生なんてすぐに終わってしまう。

そうじゃなくて、視線にずっとチラチラ入り続けている洗濯物や洗い物の食器に着手すること。

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そして、それっていうのはきっと、革命とか革新的なこととかじゃなくて、どちらかといえば「弔い」に近いもの。

供養や成仏させる感覚にも近そうです。そして、その「弔いからの再出発する力」がきっと僕らには求められている。

でも現代人は、そんな弔いの仕方を完全に忘れてしまっていて、見つけたときには呆然としているが、きっと村上春樹文学の裏テーマでもあるような気がするし(自分にはそう読める)、実際に映画『ドライブ・マイ・カー』なんかも、そんな映画だったなあと思います。

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最後にまとめると、現代人が本当に必要としているのは、単に「新しいことに挑戦する勇気」ではなく、「喪失と再出発の勇気」なのではないか、ということです。

そして、その個々人の課題が何かは、きっともうそれぞれによくよくわかっているはず。あとはそれと真剣に対峙する覚悟があるのか否か、その勇気を持てるかどうか。

僕が「共同体」の話や「永遠の同伴者」、そして「はたらく」の観点にこだわる理由なんかも、まさにここにあります。

それが自分にとっての自己の課題のひとつ、これに真剣に勇気をもって取り組まないと生きる意味がないと思えることのひとつだから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。