「批評」とは何か。

この問いは、文化や芸術などの世界だけでなく、僕らの日常生活においても重要な意味を持つよなあと思っています。

そして、僕が思う批評とは、本質的に「よいとは何か」を目指す営みであり、「事そのもの」を見つけ出そうとする試みでもあります。

このような探求をしていく中で、僕たちは自分自身と、他者や世界とのズレに気がつき、それを言葉にしようと努めるようにもなっていく。

そして、そのときに対話ができる空間は必要不可欠であるはず。

今日はそんなお話をこのブログの中で改めて丁寧に考えてみたいなと。

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思うに、何かを批判的に語るような批評自体は、社会の中に存在していて当然だと思います。

そうやって、何か対象のネガティブな側面、誤っていると感じられる側面を、お互いに指摘し合うことはとても大切なことだと思う。

しかし、ここで重要となるのは、その「目的」だと思うんですよね。

一体何のために僕らは、その批判的な批評を行うのか。

この問いに対する答えが、批評の価値と意義を決定づけるなと思っています。

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で、残念ながら現代は、この批評を軽々しく扱う傾向がある。

特にインターネットの世界においては、批評を明確に悪意を持って弄ぶひとたちがいて、自分たちの利己的な売上や、PVにさえつながればよいと考えているひとたちも非常に多い。

さらに厄介なことに、そういった人々は、一体どこにつっこみどころが生まれるのか、それをちゃんと理解していて、そのためには誰のどんな嗜虐性を批判の対象にすると、より一層読者の興味関心を刺激できるかも緻密に計算して行動をしている。

このような状況下では、人々の「よい」とは何かを知りたいというような人間の好奇心やそんな趨光性みたいなものが、悪意のある人々によって、うまく利用されてしまうわけです。

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特に、インターネット上では、前後のコンテキストがまったく共有されずに、ノンリニアなコンテンツとして、受け手の手元に不意に届いてしまうという問題があります。

これがたとえば、雑誌としての週刊文春のように、ひとつのパッケージとして見れば、明らかにこれは悪意を持って作られたゴシップ誌であって取るに足らないものだと判断できる。

でも、それがたとえば一つのツイート、ひとつのブログ記事、ひとつのPodcastやYouTubeの配信コンテンツとなると、前後の文脈やコンセプトもわからないため、一見すると正当な批評にも見えてしまうことがあるわけですよね。

でも、このような仕掛けをたくみに操る人々、そんな彼らの真の目的はひたすらにハック的な視点から「お金」と「注目」を集め、結果として自分たちがちやほやされることにあったりするわけです。

これは批評の本来の目的からは、完全にかけ離れた行為であって、社会にとっては明らかに有害な影響をもたらすよなあと僕は思っています。

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で、冒頭でも述べたように、本来批評が向かうべき方向は「よい」とは何かを探求することにあると思っています。

この点、過去にもご紹介した「学びのきほん」シリーズから出ている哲学者・西研さんが書かれた『しあわせの哲学』という本の中にこれ以上ないというぐらいにわかりやすく「批評とは何か」が解説されています。

西さんは、著名な批評家・小林秀雄の文章を引用しながら、批評の本質について、以下のように語っています。

 誰もが感受性をもっていて、なんとなくこの人の言うことは好きだな、なんだかよくわからないけど嫌な感じがするな、などの感情が湧いてきます。その感情を細やかに捉え、自分はどこが嫌なんだろう、どこが好きなんだろうと自問して言語化する、そうやって自分のなかの感受性を認識して育て、より明確な価値観を形づくっていくのが、文学であり批評である、と小林秀雄は言うのです。


この考えは、批評が単なる批判や攻撃ではなく、自己と対象との関係性それ自体を深く掘り下げる行為であることを、とてもわかりやすく僕らに示してくれているなあと思います。

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そして、西さんはさらに哲学者・ヘーゲルの思想も引用しながら「事そのもの」の概念についても説明しています。

ヘーゲルは冒頭で語ったような「ズレ」の概念に対して「個々の作品は過ぎゆくものだが、それらを貫いて持続するものが出てくる。これが〈事そのもの〉である」と述べたそうです。

では、このむずかしそうな「事そのもの」とは一体どういう意味なのか。

こちらも本当にわかりやすく解説してくれています。

たとえば、人間が文学作品をつくると、それを多くの人が読んで味わい、「ここがいいんだよ」と批評し語りあいます。すると、そのなかから「ここにはほんものの文学がある」「これがほんとうの小説というものだ」などと、誰もが認めるものが出てきます。このように、表現し批評されるという営みのなかで「これぞほんものだ」と人びとの間で信じられるものが出てくる。これを「理念」と言ってもいいでしょう。ほんものの文学、ほんものの医療、ほんものの教育、そのような理念のことを、ヘーゲルは「事そのもの」と呼ぶのです。


つまり、僕なりにまとめると、批評とは「よいとは何か」や「事そのもの」としての真理とは何かを考えるために行うものだということです。

言い換えれば、そこに向かっている間が真の意味での批評であり、他人の揚げ足を取ったり、それを見世物にして、お金やPVを荒稼ぎすることは、たとえそれが一見的を射ているように見えたとしても本質的な意味での批評ではない。

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ここで誤解されないように、繰り返し強調しておきたいのは、批評的な観点を持つことそのものは決して悪いことではなく、むしろ僕らの日常生活においては、必要不可欠だということです。

なぜなら、声が大きい人や、すでに結果を出している人たち、マジョリティや権威側にいるひとたちが、いつも正しいわけではないからです。

どれだけ周囲から称賛されている人であっても、正しい部分もあれば、間違っている部分もあります。

なにより、そのような声の大きな作り手たちだって、自分の中にある「理想と現実のズレ」を常に修正し続けようとして、今も現在進行系で創作活動をし続けているわけですからね。

それを批評的な観点から指摘することは、より良いものを共に作り上げていこうとする場合においては、非常に重要な役割を果たすと思います。

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そして、ここまで考えてくると、批評を健全に行うために最も重要なのは「対話」を行うための空間と、そのための「敬意」や「礼儀」だということも同時に見えてくるのではないのかなあと。

「よい」とは何か「ほんとうの◯◯とは何か」を考えるときに、最も重要なのは、これは自分がわからない、まだ腑に落ちていないから行っているんだという謙虚な姿勢なのだと僕は思っています。

決して、相手を批判的に攻撃し、悪口を言いたくて言っているわけではないと、その認識をお互いに共有することが大切だなと。

つまり、何のために批評的な視点を持ちながら、時には鋭く鋭利な思想を用いるのか、その目的が本人にも、対話しているメンバーにも、さらにそれを見ているオーディエンスにも、しっかりと伝わっていることが何よりも重要だと思うのです。

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教養とは、先人たちが磨きに磨いてくれた、切れ味の鋭いハサミのようなものですからね。それを用いて何かを「切る」ときには、一体何のためにソレを切るのかを常に意識しておく必要がある。

「よい」を見つけ出す目的、その一線を超えたらアウト、あるいはその一線を超えるまでであれば批評が許される空間をつくり出さないと、本当の「よい」は見つかっていかないわけです。

ただ単にベタベタと褒め合い続けて、誰も何も傷つかないかもしれないけれど、全員がいちばん求めている「よいとはなにか」そんな「事そのもの」には全く近づけなくなってしまう。

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で、改めて僕がつくりたいのは、このような対話ができる空間なんです。

本書の中でも、批評から対話への流れが明確に示されており、西さんは以下のように語ってくれていました。ここも非常に深く刺さる部分です。

互いの想いを受けとめあう対話を通して、互いの存在の承認が得られること。それを土台として、「ほんとうによいこと、人びとが喜んでくれることとは何か」を考えて語りあい、それをめざして実践する。その実践をまわりが受けとめて真摯に批評してくれる。こうした過程を通じて「事そのもの」を信じながら生きていく。そのような生き方にこそ、私たちが承認と自由の両立に向かう道筋があるのだと思います。


これは、批評と対話の理想的な関係性を、本当にわかりやすく示してくれているなあと思います。

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最後に強調したいのは、西さんが語るように、お互いの想いを受けとめ合い、さらにお互いの考えや仕事について批評し合うことができれば、それはお互いの「物語」を刷新することにも、きっとつながっていくということなんです。

これは、僕が日々このブログでお伝えしたいと思っている「自己刷新の価値」なんかとも、とても深く結びついている部分でもある。

「人それぞれだよねー」と割り切って、お互いに特に対話もせずに、それぞれの物語に居着いてしまうと、個々の物語は、誰からも否定はされないけれど、刷新もされていきません。

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なぜ、いま対話をする空間が必要なのか。

そして、その場において必要なことは、敬意と配慮と親切心、そして礼儀である、その意義みたいなものが今日の話からも、また新たに伝わってくれていたら本当に嬉しいです。

その対話空間で繰り広げられる批評の目的は、ほんとうの「よい」とは何か、そして「事そのもの」に少しでも近づくための営みであるということを、これからも決して忘れたくないなと思います。

もちろん、その「よい」の答えは決して一つではない。だからこそ相対主義的に陥るのではなく、対話をしながら探り合う営みを続けていく必要があるのです。それが「問い続ける」ということでもあると僕は考えています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。