昨夜、Wasei Salonの中で開催された読書会の中で、とても興味深い問いが投げかけられました。

それが、「しゃべることと、書くことの違い」について。

生成AIが出てきて、自分がしゃべったことをカンタンに誰でも当たり前のようにAIを用いながら、文章化ができるようになった時代です。

それでも、なぜ僕らはわざわざ自ら筆を取って文章を「書く」のか。

今このことを改めて考えてみることは、とても大切な観点だなあと思います。

今日はこの内容について、それこそ「書く」という行為を通じて、自分なりの考えを深めてみたいなあと思います。

ーーー

まず、ざっくりと僕の中のしゃべると書くの違いを冒頭でまとめておくと、

しゃべるとは、即興的で、会話の自然な流れを大切にし、その分、強くその場の雰囲気に影響を受けやすい表現方法だなと思っています。

一方で、書くとは、一人で書くため、じっくりと考える時間がある。その分、多面的な視点も表現することができる、自分自身との対話が可能である表現方法だなと思っています。

このあたりが、個人的な切り口となってくる。

ーーー

もちろん、この切り口以外にも、多様な違いを挙げられるとは思いつつ、今一番大事なことは、やはりここかなと思うんですよね。

というのも、音声入力したものを、完璧な文章の体裁で整えてくれて、意図もしっかりと汲み取ってくれる、それどころか言葉にならなかった部分までしっかりと付け足してくれてしまうのが、現代の生成AIなわけですから。

「だとすれば、芸人さんみたいにひたすらに喋る能力だけを高めて、あとはAIに任せればいいじゃないか、自分で筆を執って書く必要なんてもうないのでは…?」となってしまう。

そんな中で、それでも「書く」という行為を通して、自分が日々強く実感している書くことの意味を見出そうとすると、やはりこのあたりを軸にしながら考えを深めていく必要があるのだろうなあと思うわけです。

ーーーー

で、たとえば、1冊の本を自分自身が読み終えたときに、多くの人は、その本に対して、100%同意している自分もいれば、100%反対している自分もいるはずです。

しかもそれは部分的な話だけでなく、1冊の本全体の印象に対しても、どちらの立場も持っていると思うんですよね。

ただ、喋ってひとに感想を伝える場合、その中で自分の中で比較的声が大きい自分の声を「私の意見」として表明するのが一般的なんだと思います。

そうしないと、一体目の前の相手がどんなスタンスなのかがよくわからなくなってしまうから。聞き手の予測可能性も担保しづらくなって、コミュニケーションも取りにくくなる。

つまり、会話のマナー違反になるわけですよね。しゃべるという行為は、そのようなマナー的な意識をどうしても内在している。

ーーー

この点、政治なんかはわかりやすいけれど、自分の立場をはっきりさせないと議論にならないわけですよね。

でも、そんな政治的立ち位置でいえば、右派も左派も、保守もリベラルも新自由主義も、全部自分のなかには存在している。

自分という人間のなかでは、ちゃんと共存してたりもすると思うのですよね。

「たましい」という意識は、その複数の立場を難なく受け入れてくれる存在でもあるということなんでしょうね。もちろん、阿頼耶識とかでもいい。

ーーー

それがおしゃべりの場に引き出されるときに、その矛盾は一般的には許されないわけです。

100%肯定と、100%否定が内在していると感じるのなら、そのように感じている理由を理路整然と説明しなければいけない。

そして、その説明は大抵の場合、ものすごくむずかしいわけです。そもそも、自分でもなぜそう感じているのかわかっていない場合も多いですからね。

ゆえに、自分の立場をある程度明確に最初に定めてしまうことになる。また、日本人の場合、「空気」も存在していて、ものすごく微細な調整をしていると思います。

あの橋爪大三郎さんの日本人の4行モデルの話を思い出して欲しい。

そうやってよくも悪くも、僕らは場の空気や雰囲気に合わえて、自分の立ち位置を微細に変更しているはずなんです。


ーーー

一方で、書くという場合には、まずはその立場をいくらでも紙の上や、スクリーンの上に立ち上げることができる。

僕もよくブログを書きながら「自分の反対側の立場の考え方」からのツッコミをブログの中盤あたりで書き入れることがあるのですが、

あれは、読者や受け手からそう読まれることを先回りしてというよりも「自分の中のまた別の自分が、実際にそうやってツッコミを入れてきている」という場合のほうが多いです。

そして、書いている中で読み手のことを意識して、残しておいたほうがわかりやすい場合であれば、そのまま残すということをしているようなイメージ。

ーーー

で、そもそも人間の中には、それぐらい多面的な立場が存在すると思うんですよね。

そして、僕が思うのは、自分の中にいる複数の立場を体感できることが「書くこと」の特殊性であり、唯一無二性だと思うのです。

ここが今日一番強く主張したいポイントです。

さらに、その声に丁寧に耳を傾けて、それぞれの人格を立ち上げていくことが「物語る」ということもでもあると思います。

小説なんて、その最たるものだと思います。

この点、とてもわかりやすいのは、ドストエフスキーの小説。

彼の小説の中には、さまざまな立場にいる、ありとあらゆる個性豊かなキャラクターが登場してくるわけです。批評家のバフチンは、それをポリフォニー(多声性)と呼び、まさにいろいろな声が渦巻いている状態だと語るわけですよね。

また、その登場人物同士が最後には和解をして、何か大団円を迎えて、ひとつの結論(作者のスタンス)が明確になるわけではない。

ずっと各キャラクターが、平行線を辿る。でもそれは紛れもなく、ひとりの作家の中から生まれてきた、ひとつの物語でもある。

そして読者としても、わけがわからなまま、それを難なく受け入れてしまうこともできてしまったりするわけです。複雑なことを複雑なまま。

ーーー

その自己の中に存在する無数の「私」の割合をどれぐらいの濃度にして書くのか、その調整が可能なこと自体が「書く」ということの効果効能だと、僕は思います。

自分が過去に出会ってきた古今東西さまざまな人々の、いろいろな顔がちらつきながら、場面に応じて、リミックスしていくこと。

そうやって、書きたい問いに対して、自分なりに再解釈していくこと。それが書くことの効果効能なんじゃないでしょうか。(今まさにそれをやっている)

ーーー

とはいえ、ここで問題なのは、ドストエフスキーは「口述筆記」だったという噂もあるので、喋りながらでもソレができてしまう天才がいるわけですから、話は単純じゃないなとは思っています。

ただし、一般的には、自分のなかにいる立場が全く異なる自分と出会えることが、自ら能動的に書くことの重要性だと思うんですよね。

そして、その自分の中の他者というのは、書きながらでないと決して立ちあらわれてきてはくれないタイプのレアキャラも存在する。

そう考えると、「男もすなる日記といふものを〜」の冒頭で始まる、紀貫之の『土佐日記』なんかは、そのあたりの違いみたいなものを、深く理解したうえで書かれた画期的な書物なんだと思いました。(すごい)

ーーー

繰り返しますが、社会の中だけで、ただおしゃべりだけをし続けていると、どうしても一義的になりがち。

そしてその自分が話したことがそのまま「相手(聞き手)」という鏡によって跳ね返ってきて、その跳ね返りから立ちあらわれてくる社会が期待している「私」、こうあるべき・こうあって欲しいと願われる「私」しか見えてこない。

それは、本当にただエコーのように跳ね返ってきてその結果として私という輪郭が構築されているだけに過ぎないにも関わらず、それが「私」だと思わされているだけだったりもする。

一方で、書くという行為であれば、少なくともその輪郭自体は、自分で確認しながら、ゆっくりと筆を進めることができるなあと思います。

もちろん、それでも他者が期待する輪郭からは逃れることはできないけれど、自分が他者の期待している輪郭を再現しようとしていることには、自覚的になれる。ソレだけでも大きな違いです。

しかもそれを、その時の「今の私」という状態で置き去りにすることもできるのが「書く」ことの素晴らしさでもある。自分の「影」のように切り離して、その時の変わらない「情報」として保存することもできる。

時間が経過しても「文字」という情報は、いつまでも変化しないでそのまま残り続けてくれるわけですからね。

ーーー

なんにせよ、大事なことは、書くという行為を通じて、自分の中に複数の存在する「立場」に自覚的になることなんだと思います。

そして、そんな立場の違う彼ら(彼女ら)の声に対して丁寧に耳を澄ますこと。

しゃべることを中心に据えてしまうと、必ずどこかで聴いたことのある「ストックフレーズ」しか出てこなくなる。

その私の中にいる一番大きな声の私が、会話のテンポに合わせるために、自分の口を通じて一番最初に出てきてしまう。「おずおずと話し出す、どもって言葉にならない言葉を話そうとしている自分」はいつも無視される。


その無視される自分に、ちゃんと話す時間を与えることが「書く」ことの効用なんだろうなと思います。

そしてそれらは決して「割合」ではなくて、同時多発的にアメーバのようにうごめいているものであり、常に生成変化し続けている。

それを身をもって体感することが、書くという行為のような気がしています。

ーーー

これから、いくら生成AIが発展しても、今日のブログで語ってきたような意味における「書くという行為」の効果効能みたいなものは、何も変わらずに続いていくような気がします。

そして、人間が「書く」という創造的行為自体をこれからも決してやめないであろう理由も、きっとこのあたりにある。

たとえ、どれだけ生成AIの書くもののほうが優れている内容になったとしても、です。

書くという行為は、単なるコミュニケーションツールを超えた、深い自己探求と創造的思考の過程であることが、今日のブログから少しでも伝わっていることを願っています。

いつもこのブログを読んでくれているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。