昨日から話題沸騰のChatGPTの画像生成機能のアップデート。

Wasei Salonの中でも、コミュニティメンバー同士の集合写真をアニメイラスト風に加工して遊んでみました。

で、完成した「アニメ風イラスト」を受けて思うのは、このイラスト自体が動き出し、なおかつ合成音声で吹き替えされるのは、もう時間の問題だと考えたら、僕らは将来的には、コミュニティメンバーの日常系のアニメや、ドラマなんかを観るようになるんじゃないのかなあと。

あのイラストが動き出して、日常系のアニメになったら、僕だったら絶対観ちゃうと思います。

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いま現在も、オープンのインターネット上に転がるウェブ記事やnote記事なんかは読まずに、コミュニティメンバーのブログをついつい優先して読んでしまうように、気づけばそのブログや音声、写真などの創作物をもとにAIがつくったアニメや音楽、ドキュメンタリー映像を楽しむ、そんな世界線もあとほんの1〜2年の話なのかもしれない。

高城剛さんが、ガラケーが出てきた当初に語られたという「女子高生にとって、最大のキラーコンテンツは彼氏からのメールである」というあの名言、それがついにアニメの世界にもやってくる。

つまり、無数のAIコンテンツが生成可能になった社会においては、「関係性」こそがコンテンツ価値を決定するという、いわば「再・関係性化」の時代へと進んでいくのかもなと。

自分が知っているひとが地上波の番組に出ているとなったら、普段は地上波を全く観なくてもついついみちゃう、みたいなあの話にもとてもよく似ています。

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で、この話を更に推し進めて考えてみると、そうなると今度は、コミュニティの本来的な広告というのは、アニメや映画のような物語性のある映像作品になっていくんだろうなあと思うんですよね。

実際問題、ジブリ好きが集まるコミュニティがあって、そこではジブリの中で描かれている倫理観や正義感がひとつの結節点であり、集まるための旗印であるように。

そのような形で各コミュニティごとに、その倫理観や正義感が映像作品化されていくということなんでしょうね。

ありとあらゆる企業やコミュニティが、オウンドメディアならぬ、オウンドアニメやオウンドドキュメンタリー映画をつくるようになるんだろうなあと思います。

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で、だとすれば、コミュニティメンバー同士で、それをつくるための核となるところ、その源泉となるようなものを掘り進めていく必要がある。

つまり、井戸を掘るようにして湧き出てきたコミュニティごとの文化観やそこに宿る宗教観がより一層重要になってきて、それが次の時代の大きなテーマであり課題にもなっていくんだろうなあと思います。

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この点、少し話がそれてしまいますが、『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』という名著の著者であるヤニス・バルファキスの最新刊『テクノ封建制』を最近読んでいます。

この本の中にも、AIが「資本の他者性」の論理によって、人間側が調教をしていると思いきや、そのうちAIから人間が調教をされるようになって、無慈悲にAIに駆動させられるようになり、人々はAIの奴隷になっていくであろうという話が書かれてありました。

そのような現象に対してどうやって僕らは、抗いながら自分たちの独自の文化を耕していくか。
もちろん、AIを完全に遠ざけるのではなく、同時にAIを用いながら、です。

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それっていうのはきっと、表のオープンな世界の状況と異なれば異なるほど、そこに唯一無二の価値が生まれてくるのだとも思うんですよね。

つまり、他者との深い対話を通して、共に文化観や次の時代の宗教観をつくりあげていくことに独自性やオリジナリティが生まれてくる。(もちろん、その結果カルトのように怪しい方向に行くことは本末転倒だけれども。)

逆に言えば、その文化観や宗教観さえあれば、いくらでもコンテンツ側をつくることは可能となる世界線が、これからやってくるわけですよね。

今のAIにできることは、アニメ風のイラストなんかにとどまるわけですが、ここからは実際のアニメ作品や音楽、ドキュメンタリー映像など、本当に映画がつくれる日もたぶん数年以内にやってくる。

で、この各コミュニティごとの文化観や宗教観だけは、AIやひとりの人間だけではつくれない。他者と共につくりだすほかないんですよね。そこには必ず生身の他者とのコミュニケーションが必要になるから。

「ファッド→ファッション→スタイル→トラッド」の流れの中で言えば、ファッションからスタイルをつくらないといけない。

ファッド、つまり一人の狂気だけではやっぱりダメで。それはコミュニティの世界観と同義なわけだから、人間同士が集って生み出すうねりのようなものである必要があるわけです。

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だとすれば、自分たちがアニメの登場人物になったような気持ちで、そのコミュニティ内で紡いでいく物語の断片こそが、次の時代のコンテンツの源泉であり、価値の源泉なんだろうなあと思います。

ここが今日一番伝えたいポイントかもしれません。

明確なコミュニティの文化観や宗教観が存在し、なおかつそれがAIによってコンテンツ化されても埋もれないだけの価値を持つこと。

そして、それがコミュニティの外の人々にも届き、そこで共感や共鳴した人々が参加できる余白がコミュニティの中に存在していること。

たとえば、それはちょうど、ジブリ映画『風立ちぬ』が、堀越二郎と堀辰雄をモデルにしてつくられたように。

他にも、『千と千尋の神隠し』は水商売におけるお客さんとの接客を通して、根暗から明るくなっていく女の子のストーリーが原型であって、さらに千尋はスタジオジブリに関わっている方の実際の10歳前後の娘さんがモデルだったように。

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じゃあ、なぜ宮崎駿監督があの作品をつくれたのかといえば、やっぱり半径3メートルにアイディアの源泉としてのスタジオジブリという「別世」があったからだと思うんですよね。

もっと具体的に言えば、実社会から隔離したそんなある種のユートピアやオアシスのようなものを徹底してつくりこんだ、プロデューサー・鈴木敏夫さんの手腕がそこにあったからこそなわけで。

もっと端的に言うと、宮崎駿という“天才”の源泉は、鈴木敏夫さんとの毎日の雑談の中から「日々注ぎ込まれるヒント」のほうにあった。

堀越二郎や堀辰雄に改めてあのタイミングで興味を持ち、それを映画化したくなるように宮崎駿という怪物を手なづけていたわけですもんね。

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だとしたら、きっとコミュニティも、そういったスタジオジブリみたいな「別世」が大事って話になってくるんだろうなあと思います。

そこで文化観や宗教観さえ醸成されていれば、それを養分にして、作品はいくらでも開花するし、それがある種の広告の役割を果たして、コミュニティ活動の継続性も担保される。

で、そのためにはバズらないこと、深く長く続く、ヘルシーな文化感を体現したほうが良いんだろうなあとも思います。

それよりも、読んでて時折退屈になるような聖書の物語のように淡々と、でもすべてが揃うと、ひとつのキリスト教のような偉大な宗教が生まれてくるぐらいのほうがいい。

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これまでの世の中では、創作者自身がいかに狂っているかが肝だったけれども、でもAIが創作の主体、クリエイターそのものになってくれば、そこに一体どんな養分を与えていくのか。

その養分とは、メンバーひとりひとりの喜びや葛藤、悩み、そして他者との関わりの中で生まれる感情やコミュニケーションそのもの。

みんなでそんなふうに儀式的にキャンプファイヤーを囲み、魔法陣を囲んでいるような雰囲気をつくり出してく。AIはもはや、その中心にある「炎」そのもの。

そこに何を投げ入れ、どんな儀式を営むのか。それが今、僕らがやろうとしていることなんじゃないのかなあと。
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その結果として一体何がでてくるのか。鬼が出るか蛇が出るか、それは本当に誰にもわからない。

そして繰り返すけれど、これは、いくらでもヤバい方向にも行けてしまう。

だからこそ、歴史や思想、哲学や宗教を学びながら、本当に大事で本質的な、過去に考え抜いてくれた先人たちの見据えた先、その指針をコンパスの代わりにさせてもらいながら前に進むこと。

そこに必ずヒントがある。

そうして文化を受け紡ぎ、他者と共に作り出していく生の物語こそが、AI時代における最大の価値や財産になるんだろうなあと漠然と想像しています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。