最近、NHKスペシャルで放送されていた『新ジャポニズム    第2集    J-POP“ボカロ”が世界を満たす』という番組を観ました。


なぜ世界中の若者にボーカロイドの音楽が今ウケているのか、という話がメインの内容です。

この番組の中で、僕がとてもおもしろいなあと思ったのが、とある海外の研究者の方のお話。

今日は、このお話をご紹介しながら、改めて日本の文化における「能動的不在」とは何かについて、考えてみたいと思います。

ーーー

この点、その海外の研究者の方が、海外のボーカロイド楽曲のファンに取材をしながら何を語っていたのか、以下で少し引用してみたいと思います。

私はリスナーにボーカロイドの声について聞き取り調査をしました。なぜなら、その魅力を疑っていたからです。「声はいつも同じじゃないか」と尋ねました。彼らはこう言ったのです。「いや、声はその時のよって違う」「自分が悲しいとき、うれしいとき、その声は違って聞こえるんだ」と。初音ミクは”空っぽの器”で、自分の感情を投影できるのです。


つまり、ボカロの歌声に実態がないからこそ、歌い手の個性や人格にとらわれることなく、ボーカロイドの歌に、それぞれが没入できると語るわけです。

このお話は、めちゃくちゃおもしろいなあと思います。

実際、映し出されていた海外のフェスの映像では、歌い手がボーカロイドの歌を歌うときは現地のファンも着席してゆったり眺めているのに、ボーカロイドの楽曲になったときは立ち上がって熱狂している。

空っぽの器としての、ボーカロイドのほうが深く没入して、共感できる。それはつまり、自己を投影することが可能となる「鏡」のような役割を果たしているということですよね。

まったく同じ楽曲に対して全員が熱狂をしながら、それぞれのファンが観ているものは実はそれぞれ違うしバラバラなのかもしれない。

それが、非常に日本文化的だなあと思います。

ーーー

実際、ここから番組の中でも日本文化の歴史にフォーカスをし、水墨画や枯山水、短歌など、聞く人や見る人が、自分のほうから関わっていくことで、そこに価値を見出していくのが日本文化なのだと語られていました。

今回も、ボーカロイドという形で意図せずに「そういうものが出てきてしまった」というのが日本らしい、と。

そのあと、能楽の例も深堀りされていて、役者の「能面」に話題がうつり「能面のような表情」というけれど、まさにそれは意図的であって、その面から何を読み取るのかは、観客の心持ち次第。

そこには、自己の感情の起伏を投影することができて、それが能(面)の表現なんだという風に語られてありました。

そんな「誰のものでもないけれど、誰のものでもある」ような不思議が、日本文化の中には秘められている。

ーーー

で、これは以前書いた「能動的不在」の話なんかとも重なるなあと思います。


あのときに例に出したのは、日本庭園の借景と、江戸末期のからくり人形「弓曳(ゆみひき)童子」の話です。

その話をもう一度ここで簡単にご紹介すると、当時のからくり技術を使えば、人形の顔を動かすのも簡単だったはずなんだけれど、日本の「弓曳童子」はあえて顔を動かさないようにつくられているそう。

その理由は、あえて顔の表情を一切変わらないことによって、実際に弓曳き童子の矢が的に当たれば、見ているひとにはその無表情の顔がスマイル(ポジティブ)に見えるし、矢が外れればアンクシャス(ネガティブ)に見えるのだと。

それが日本文化特有の能動的不在で、「非完結性」とも言い換えることができるというお話でした。

ーーー

あとは、似たような文脈でよく語られるところで言えば、キティちゃんの表情なんかもそうですよね。

キティちゃんほど、空っぽな表情で世界的なマスコットに成っているキャラクターもなかなかない。

それゆえに、観ている側の気持ちをそのまま反映し、大人になっても、いくつになってもキティちゃんに対して自己を投影できる、ということなんでしょうね。

最近、若い子が腕にキティちゃんのタトゥーを入れていて、「キティちゃんは、タトゥーとしても入れられる。でも、ちいかわは好きでも絶対無理」と言っていて、それがめちゃくちゃおもしろいなあと思いました。

彼女が能動的不在のことを理解しているとは思わないですが、この能動的不在を直感的に感じ取っているからこそ、一生残り続けても構わないキティちゃんを選んだということだと思うんですよね。

まさに、そこには「ない」ということが完全に「ある」というような状態。

ーーー

で、最近読み終えた鈴木大拙の『東洋的な見方』という本の中に、とてもわかりやすい東洋と西洋の見方の違いについて語られてありました。

以下、本書から少しだけ引用してみたいと思います。

”物の見方、考え方に、東西の区別を立てることが、可能である。
西洋的なるものは、神が「光あれ」と言った以来の世界、光と暗との二つに分かれた世界から出発する。数の世界がいつも目の前にちらつく。
東洋的なるものは、「光あれ」とも何とも、まだ何らの音沙汰の出てこないところに、最大の関心を持つ。
(中略)
一の数さえもまだ始まらない以前を見ようとする。主も客もない。われも汝もない、ローゴスもまだ面を出さぬ、「光あれ」のひと声もまだ発せられない、その当時の消息、いわゆる父母未生以前の消息を端的に見てとらんとするのが、東洋式の精髄である。”


ーーー

まさにこの西洋と東洋の違いが、今日語ってきた「能動的不在」の話にもあらわれているなあと思います。

つまり、西洋は「ある」を積極的に提示するのに対して、東洋(日本)は「あえて『ない』を積極的に提示する(能動的不在)」ということが本質的な違いだと言えそう。

というか、その東洋的な見方をより一層わかりやすく、直感的に感じられるようにと創意工夫が施された文化が「禅の文化」に代表されるような、日本文化のアレコレだってことなんでしょうね。

ーーー

で、ここでやっぱり思い出すのは、建築設計士・黒木さんの「視線をズラすから、共にいられる」というお話。


あの話もまさに能動的不在なんだろうなあと、あらためて強く実感しました。

つまり、みんなが観ているものは同じでもあり、バラバラでもあるわけです。だから、共に居られる。

また、そこにはちゃんと「同じものを観ている」という、共同体験もちゃんと成立する。

ーーー

これが、西洋の場合は、同じ「共にいる」を作り出すために、「ある」を過剰にしていくわけですよね。

意図的に、視点を大量に増やす方向に向かいがち。

たとえば、ディズニーランドみたいな空間を作り込んで、それぞれのゲストが、それぞれの視点に着目しやすいようにと様々な工夫がなされている。

よくある例で言えば、男性はビジネスモデルや隠れミッキーなんかに着目し、女性はキャラクターやトンマナ、その雰囲気に夢中になれる、みたいな状態をつくりだす。

どちらも制作サイドから意図的に仕掛けられた多数の「視点」のひとつなわけです。

そして、たしかに、そうすれば興味関心が異なる男女であっても、自然と共に居られるわけだけれども、それぞれが自分の世界に入り込んでしまっている。

で、それが実は一番、「孤独」や「孤立感」を感じる原因だったりもするなあとも思います。だって、相手は同じ空間内にある、明らかに違うものを観ているわけですから。

あくまで、空間をともにしているだけ。

ーーー

「能動的不在」の場合はそうじゃなくて、水墨画とか枯山水とか、引き算の美学でつくられていて、それ自体がまるで鏡のような対象であって、鏡に映る私自身と向き合えること。

鏡を観ている状態というのはお互いに一緒なわけです。そのうえで、跳ね返ってくるものが異なる、ということなんですよね。

本当に微妙な違いではあるのですが、そこには雲泥の差があるなと思いますし、まさに、ここだよなあと思うんですよね。

ーーー

先程ご紹介した鈴木大拙の『東洋的な見方』の巻末の解説部分には「大人の赤子」という話なんかも出てきます。

これは鈴木大拙が好んで語る妙好人・浅原才市のあり方からの派生の話なのだけれども、こちらも、ものすごく興味深いことを書いてくれています。

再び本書から少しだけ引用してみたいと思います。

「大人の赤子」であることは、無条件に「赤子」に還ることを意味するわけではない。それは、なによりも「大人」と「赤子」の区別をなくしてしまうことを意味する。あらゆる差別にして「分別」ーー無限と有限、主体と客体、精神と物質、生と死、等々ーーをなくしてしまうことを意味する。

それこそが、「法則・機械・必至・圧迫」として帰結される西洋の「哲学」(科学)に対して、「人間・創造・自由・遊戯自在」を探究する東洋の「哲学」(宗教)が明らかにしてくれることなのである。


大人の赤子的な存在だからこそ、キティちゃんをキティちゃんとして見るし、見ていられる。

で、ときにそのような無表情というのは、非常に不気味でもあるわけです。日本人形とかがわかりやすい。でも、それは自己の中にある恐れや不安、恐怖の投影でもあったりする。

このあたりも、うまく言えないですが、本当におもしろいなあと思います。

ーーー

最後に、コミュニティにおいても全く同じことが言えると感じています。

役割を与えすぎないからこそ、いくらでも役割を与えられる、そこに感情を付託できることが日本型コミュニティの強み。

コミュニティ内においてはっきりした役割やラベルを与えすぎるのではなく、あえて能動的不在を設けることで、主体的に関わろうとする人々が、自発的に集まれる仕組みがそこに生まれてくる。

場それ自体を「鏡」を見立てて、それぞれが自己と出会えるような空間。

世の中と異なる別世をつくるなら、このような「能動的不在」を積極的につくっていくことが、コミュニティ運営においても非常に重要なポイントなんだろうなあと思っています。

いつもこのブログを読んでいるみなさんにとっても、今日のお話がそれぞれに何かしらの参考となっていたら幸いです。