時代の変化と共に「個人主義」と「共同体主義」の対立みたいなものを最近また、頻繁に目にするようになったなあと感じます。

その対立を見ながら僕は、どちらも言っていることは圧倒的に正しいなあと感じます。

そして、「何でもその構造に持ち込むやん!」って思われてしまうかもしれないのだけれども、この「個人主義」と「共同体主義」の対立というのも、どちらが正しいのかという話も「目的性」と「真の共同性」の話によく似ているなあと思うのです。

具体的には、人々が本当に求めている「真の共同性」であって、それに到達するためには、「目的性」を経由しなければならないという話。


それと同じように、本当の意味で他者を尊重した「共同体主義」にたどり着くためには、それぞれの「個人主義」を必ず経由しなければいけないというようなイメージです。

つまり、他者を真に尊重し、助け合える社会をつくるには、まずは一度、それぞれが自律した「個人主義」をしっかりと経験しなければならないということなんでしょうね。

福沢諭吉の「一身独立して、一国独立す」なんかにもよく似ている。

ーーー

しかし、そう簡単にはいかないのが、現実でもあるわけですよね。

なぜなら、その「個人主義」という理念こそが、共同体を破壊する最大の要因にもなり得るからです。

現に、個人の自由や権利を強調するあまりに、他者への寛容さというものが、社会的に弱い立場に置かれているひとたちの包摂や受容にはつながらず、ただただ「無関心」や「放置」にも変わってしまっている。

本来、個人主義というのは包摂概念のもと、ノブレス・オブリージュ的な概念とセットで語られるべきなんだけれど、今の個人主義というのは、全くもってそうではない。

で、だからといって、そんな個人主義を一概に否定してしまうと、僕たちが本当に目指したい「真の共同性」には、決して辿り着けないというジレンマが存在する。

むしろ、そうやって個人主義を攻撃することで、理想から一番遠ざかる結果となってしまう。

ここが本当に厄介なところで、どちらの言い分にも完全な正しさがあり、それぞれの主張が間違っているわけではないからこそ、なかなか答えが見えてこないむずかしい問題だなあと僕は思います。

ーーー

そして実際問題として、いまの現実社会では「個人主義」はしばしば「搾取」の方向へと流れてしまいがちですよね。

例えば、今話題のChatGPTの画像生成のように、何か突如として革新的なことが起きても、それを使ってみんなが躍起になるのは「どうやってこのタイミングで他者を少しでも出し抜いて、一刻も早くこのボーナスタイムで、賢く他者から搾取できるのか」という話になりがちです。

でも本当は、そういうときこそ助け合ったほうがいいと僕は思うんですよね。

少なくとも、他者を出し抜いて、搾取をするために利用するものではない。

ーーー

もちろん、だからといって「じゃあただただ、搾取して得られたお金を、もう一度再分配すれば良いのか」と言うと、それも違う。

いわゆるな再分配の話では解決しないということも明白だなと思います。政治に頼ってみてもあまり意味がないと感じる理由も、まさにここにある。

なぜなら、それもまた「等価交換」の論理によって駆動していて、「再配分で平等にお金を渡したのだから、あとは自己責任で何とかしろ」という発想になりがちで、それでは真の助け合いとは程遠い状態に陥ってしまうなと思うのです。

これは、震災など大規模災害が起きたときの寄付の話なんかにも似ていて、「寄付をして落ち着かない気持ちを断ち切りたい」と「後ろめたさと、縁を切ってしまいたい」ような態度に近いのだと思います。

「普段から生きるに困らない程度の再分配しているんだから、あとは黙っていろ、優秀な人間の邪魔するな」という発想が、エリートたちから透けて見えてしまう。

ーーー

では、本当は一体どうすればいいのか。

僕は、お互いのそれぞれの得意をもとにして、互いに手を差し伸べ合える空間が大事なんだと思います。

そんなふうにして、経済が適切に循環している空間、それ自体をつくっていく、創造していく必要性があるんだろうなあと思います。

お互いの得意を、どうやって相手のために活用し合うのか。惜しみなく分け与え合うことができるのかが最大のポイントなんだろうなあと。

再分配とかのは二の次というか、そのための手段の話であって、そこまで重要な話ではない。

お互いが持っている得意分野や能力を、相手のために自然と活用しようと思えるような空間で、実際に惜しみなく分け与え合いながら、感謝の言葉が自然に行き交うような、そんなふうに駆動しているコミュニティが理想的だなあと。

ーーー

でもどうしても、今はここが完全に「等価交換」になってしまっている。

働く人手が少なくなってきているから、世の中には無人レジなんかも増えてきて「人の真心には、お金がかかるんだ」という価値観なんかも、蔓延してきてしまっている。

でも、それって本当?って僕は思うんです。

それが全部の問題を、ややこしくしているのでは?と思っています。

確かに、心のこもったおもてなしには、それ相応の対価が発生する場面がある。それは間違いない。

でも、いついかなる時も「等価交換」にするものではないと思う。

その論理で行くと、対価を支払ったんだから、お客さんは「ありがとう」を言う必要はなくなるし、飲食店で「ごちそうさま」とも言わなくてもいい。

お金という尺度において「等価交換」を考えてしまうと、「出し惜しみ」もするようにもなり、互いの関係性それ自体が冷え込んでしまう。

そうなると、余計に「等価交換」の論理以外で、人々はつながれなくなってしまう。まさに本末転倒だなあと思います。

それはあまりにももったいないし、実際今の世界は既にそうなってしまっていますよね。

ーーー

これは別の視点から見れば、すべての商品がコモディティ化する宿命にあって、ホワイトカラーの仕事も、AIにすべて奪われるという未来が確定している今、もう人間の「真心」しかお金にならないはずなんです。

もはや、これしか金銭的価値と交換できるものは残らないと言っても過言ではない。

だからこそ、それを商品として等価交換だけに用いるのは、とても危険だなと思うのです。

普段は「商品」として提供しているのに、どうして今はそれをタダで提供しないといけないの?という発想になってしまうから。

ーー

この点、本来的には、真心やおもてなし、他者への敬意や配慮、そして親切心などは、等価交換の外にあるものだと、僕は思います。

しかし、現代社会では、ことごとくそれらを商品化し、お金という尺度ですべて評価するようになった。

繰り返しますが、僕は、個人が自分の持つ能力や得意なことをストイックに磨き上げ、それを真心こめて提供すること、そこに金銭的価値が生まれること自体は素晴らしいと思う。

ただ、だからといって、価値があるからこそ「出し惜しみをする」という論理は違うのではないかと思うのですよね。

有限のもの(人間の限られた時間や労力など)は、確かに存在する。

でも、その限りあるものの中で、可能な限り相手のために力を尽くし、そこに対価以上の価値や無限の感謝の循環を生み出すこともできるし、それこそがいま重要だと思うんですよね。

そして、その限りあるものの提供したときに、得られた対価を共同体の中で循環させていく意識さえ全員が持てていれれば、経済はしっかりと回っていくと思うのです。

ーーー

走るのが速ければ、その足の速さを、背が高ければ、その背の高さをコミュニティに還元する。

単純に、それでいいと思うんですよね。

それを商品化して、対価を支払われたときにしか還元しないし、そこで発生した富は共同体に還元しないどころか、独り占めするというのはどう考えてもおかしい。

有限と無限の概念を履き違えてしまっているなあと僕は思います。

個々の「時間」は限りがあるからこそ「等価交換」をしつつも、無限のものを出し惜しみしたりとか、場面によって力加減を変えたくないなあと僕なんかは思ってしまうし、そうやって循環させていきながら「ありがとう、助かりました」がそれぞれに行き渡っているほうが、結果的に巡る富や幸福の総量は増えるだろうなあと感じます。

決してそれは対価を支払ったからと言って、等価交換で提供してもらえることは当たり前じゃない、それは文字通り”ありがたい”ことなんだという認識、その文化や慣習それ自体を醸成していいくことが大事。

ーーー

で、だからこそ、コミュニティという擬似的な空間の中で、それをお互いに感じ合えるような別世になれたらいいなあと思うのです。

「あっ、こっちのほうが誰も搾取されずに、健やかに巡るんだな」というある種の身体感覚を通して、クローズドのコミュニティの中で思いっきり味わってみて欲しい。

実際に「Wasei Salon」では、まさにそうした循環が起きているなと思います。

メンバー同士がお互いの得意分野や能力を惜しみなく提供し合い、自然と「ありがとう、助かりました」という言葉が自飛び交っている。

これは本当に奇跡のような空間だなあと僕自身も感じていますし、本当にとってもありがたいことです。

今の世の中はすべての得意や特殊能力、他者への真心が商品化されて「等価交換」となり「その勝者には総取りする権利がある」となってしまっていて、より一層貧しい方向に向かってしまう人間は努力不足であって一定の再配分さえ施せば後は無視してもよい、みたいな世界になってしまっている。

このあたりの価値観を、これからも淡々と変えていきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。