以前からずっと疑問に思っていることの一つに「なぜみんな、そんなにもごはん(食事)を美味しくしたがるのか」という疑問あります。

一般的に「ひとは、おいしいごはんを食べたいに決まっている!」と何の疑いもなく語られるのだけれども、個人的にはその疑われることのない大前提のほうが、ずっと不思議だったりします。

「それよりも食事は、淡白な味のほうが良くないですか?」と、ずっと以前から思っているんですよね。でも、こういう話をすると、すぐにサイコパス認定されがち。

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じゃあ「なぜ、おいしいごはんがあまりよろしくないのか?」と言えば、おいしいごはんというのは、単純に食べ過ぎてしまうと思うんですよね。

そして、その欲望には決して際限がないことも非常に大きいです。

どこまでいっても、さらなる美味しさを追い求めて、お金も時間も、ときには人間関係さえも犠牲にしてしまう。

一方で、淡白なごはんというのは、お腹が減ったときにはめちゃくちゃ美味しいし、満腹に近くなってくると、サクッと「あっ、もういらない」となります。

当然、そのようなごはんをつくるために、過度なお金や時間を投じる必要はないですし、もちろん、人間関係を犠牲にすることもないかと思います。

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繰り返しますが、おいしいものって、本当に無限に食べられてしまいますよね。そして、我に返ったときにはもう遅い。

完全に手遅れになってしまって後悔するのがオチです。

ゆえに、ごはんはおいしくなくてもいい、淡白がちょうどいいと思っているんだけれども、みんな家庭料理(自炊)においても、なぜか圧倒的にうまさを求めるので、本当にいつも不思議で仕方ないなあと思っているという話です。

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で、そんなことをモヤモヤと考えていたときに、この問いに対するひとつの素晴らしい見立てを、最近ご紹介した南直哉さんの本の中に見つけました。

具体的には、我々はそんな「おいしいごはん」の一体「何を」食べているのか、という話。

「そんなのは、食材を食べているに決まっているだろ!」と思うかもしれないですが、南さんはそうじゃないと語ります。

この本の中にも「食欲」の話が書かれてあって、これが本当にごもっともな内容だったので、『「悟り」は開けない』という本から、再び今回も引用してみたいと思います。

    たとえば、同じ食欲でも、動物の食「欲求」と人間の食「欲望」は違います。     
    飢えたから食べるのが前者だとするなら、これは自ずから限度があります。お腹が一杯になれば欲求は収まります。ところが、「おいしいものを食べたい」となれば、話は違います。「おいしい」は本能でありません。「おいしい」とは「おいしいと思う」ものです。だから人は、「思ったよりおいしくなかった」と言うのです(「感じたよりおいしくなかった」とは決して言わないし、言えない)。     
    飢えていれば生ゴミも「おいしい」でしょうが、満腹時のフルコースは 拷問 でしょう。つまり、「おいしい」と決まったものは存在せず、「おいしい」と思う〝心身状態〟があるだけです。     
    しかも、地域や時代で 嗜好 が劇的に異なるのは、「おいしい」が文化であり、文化ならば教育の結果で、だからこそ「グルメ」評論家が成立するのです。     
    飢えは満たされますが、「おいしい」は際限がありません。「もっとおいしいもの」「何かおいしいもの」を人間は求め続けます。つまり、それが「本能」ではないからです。     


これは本当にそのとおりですよね。

僕が感じていた違和感、その問いに対してここまで上手に表現してもらえると、本当にありがたい気持ちでいっぱいになります。

つまり、僕が言いたかったことは、食事に関しては、本来「食欲求」で良いはずなのに、なぜ「食欲望」の話をしてしまうひとが世の中においては大半なのか、という疑問だったわけです。

もっと、食欲求に従って淡白な味のものでも、その食欲って十分に満たされませんか?ってことなんですよね。

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つまり、人間は美味しさをもとめて、一体何を食べているのかといえば、「情報」や「物語」を食べているんだろうなと思います。

これは、ものすごくわかりやすい例は、ワインの話。

以前もご紹介したことのある『富の法則』という本の中に書かれてあった「ワインの実験」の話が、非常におもしろかったです。

快感を司る脳波を解析しながら、被験者が90ドルと表記されているワインと、10ドルという表記されているワインを飲み比べたときの変化について、語られていました。

以下は再びダニエル・クロスビーが書いた『富の法則』という本からの引用となります。

予想通り、 90 ドルの値札のついたワインを飲んでいるときのほうが、 10 ドルのワインのときよりも、被験者の脳の快楽中枢が活性化していた。だが、実はこのワインの本当の値段はどちらも 10 ドルだった。被験者はそれぞれの条件で同じワインを与えられていた。つまり、脳の快感活動の違いは、ワインそのものの品質ではなく、知覚された価格の違いに起因していたのだ。人は、他の条件が同じであれば、品質を左右するのは価格だと考えるのだ。


つまり、価格の違い、その「情報」を目から受信し、その情報をもとに構築した脳内の「物語」によっておいしく感じたというわけです。

そして、値札を見てしまったら最後、その情報によって脳内に構築された世界から、僕らは決して逃れることができない。

それが、すでに織り上げられた「物語」から世界を眺めてしまっているという話の肝でもあるのかなと思います。

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そもそも、この反応からは逃れられない。もし仮に、自分も同じ実験の被験者となれば、間違いなく同じ反応をしてしまう自信がある。

だから、僕が思うのは、この事実にちゃんと気がつくことなんじゃないかと思います。

この織り上げられた物語の中からしか、僕らは世界を眺められないという、ある種の愚かしさに対して自覚的になるというか。

人によっては、そんな認識は「生への否定」であり、つまらないだろ!と思われることは承知のうえですが、本当に強くそう思います。

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僕らは、価格などありとあらゆる情報込みの「快楽」を、食欲における場合には「おいしい」だと信じてしまっているわけですよね。

でもこれは、南さんがおっしゃるように、どちらかと言えばそれは文化的な側面が強く、性癖なんかとも非常に近いわけです。

そして、実際に南直哉さんの本の中では、ここから性欲の話にもダイレクトにつなげていきます。このあたりの話なんかも、本当に切れ味が抜群なので、気になる方はぜひとも本書を手にとってみて欲しいです。

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ちょうど性欲の話になったので、これは最後に余談ですが、僕は世の中の不思議のひとつに、食欲に関しては、こんなにあけすけに語られるのに、性欲は禁忌というかタブー視されていることが、いつも本当に不思議に思います。

両者はどちらも、三大欲求の一つであり、ほとんど同じような構造の産物だと思っています。

だから僕としては、この両者を公で語っているひとは、そんなにお互い大差がないと思っています。

それは別にどちらかを蔑むわけでもなく、どちらかを過度に褒め称えるわけでもなく、それは、どっちの視点から見てもそうだよねと思うんです。

どちらにおいても、人間にとってはなくてはならないもので、決して否定はしません。というか否定をしてもそれはまったく意味はない。人間の本能なんだから。

でも、「欲望」ではなく、「欲求」のほうを欲求として、ありのままに認識すればいいのになといつも思います。

でも、人間がつくりだした「欲望」こそを「本能」だとみなして、極端な方向に対象を欲望化してしまう。

そして、性欲の話のように過度に禁じる方向性と、食欲のように過度に礼賛する方向性、そのどちらかに向かってしまうというのは、正反対のように思えてどちらもやっていることは、まったく同じベクトルなんじゃないかと思います。

そういうひとは、自分が一番の常識人のような顔をしているけれど、それがもう何よりも煩悩や脳が生み出した「物語」の餌食になっているんだろうなあと思うわけです。

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人間の欲望に関しては、その前提から疑っていくと本当にいつもおもしろいなと思います。

そして、僕らが一体どんな思い込みをしてしまっているのか、それを理解するうえで、本当にかけがえのない視点を与えてくれるから、仏教もおもしろいなあと思う。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。