他者との関わり方が、いま本当に大事になってきているなと思います。

それは戦争や災害など世の中の大きな問題においてもそうですし、週刊誌や炎上ネタ、セクハラやパワハラ論争においてもそう。最近の、ありとあらゆる問題を見ていて本当に強くそう思います。

でも、絶対的にわからない存在というのが「他者」でもあるわけだから、なかなかうまくいかないのも当然のことだと思います。

そこで、無理やり相手に対して正論を伝えてみても、逆に人のこころは閉ざすだけ。

だからといって、相手に共感ばかり寄せていくと、悲しみを二倍(二人分)にしてしまうだけでもある。

それらがどちらもバカみたいだと感じるから「そもそも価値観が違う人間には、近寄るな」という話になるわけですよね。

紆余曲折辿った結果として、そのような「棲み分ける」という最終的な到達地点には、確かに一定の論理があるかと思います。

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そして、実際問題、一旦距離をおいてみることはものすごく大切なことです。そこに異論はありません。

現在のように、格差が広がる資本主義の世の中においては、お互いのわからなさは、より一層広がっていくだけですから、いちばん賢そうに世の中を渡り歩いているひとたちは、みんな他者に余計な介入はしないというスタンスを貫いて生きているかと思います。

でも、そのうえで、その次の一歩に踏み出そうとするとき、一体どうすればいいのか?

ここが今日の主題であり、今日の問いでもあります。

言い換えると、そもそもの「真の自由」というのは、もしかしたら「絶対的なわからなさを持っている他者の受容」だと気づいてしまったら僕らは一体どうすればいいのか?

僕はそれが今、コミュニティが大事であるという文脈における、いちばん深い根っこのところにある感覚だと思っています。

うまく言葉にできないけれど、いま多くのひとがそれに気が付き始めていると思うんですよね。

そうじゃなければ、コミュニティがこんなにも盛り上がるはずがない。

そもそも、コミュニティなんて面倒くさいもの、わざわざ参加する必要なんてないはずなんですから。

でも、やっぱりどこかでそこに引き寄せられてしまうのは、経済的利益とか人間関係におけるメリットとか、そういうものを超える「何か」がそこにあると感じられる。

言い換えると、消費や、地位名誉、規模拡大を超える「豊かさ」がここにあると信じている。

先日も書いた、「余人を持って代えがたい」の話にも、ダイレクトにつながる部分だと思うのです。

だからこそ、「いつかは、自己を絶対的にわからない他者に開けたらいいよね」ではなく、ここを超えていかないと、そもそも生まれてきた意味さえもないと感じられていしまうのではないか、という話がしたいのです。

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だとしたら、その他者にしっかりと寄り添いつつも、一方で他者の感情(ときに呪い)に溺れないことが、何よりも大事になってくるんだと思うんですよね。

具体的には、何か明らかに自分とは意見が異なる他者を目の前にして、「何いってんの?バカじゃないの?そうじゃなくて、こうだよ!」とド直球に伝えるわけでもなく、

一方で「それは本当につらいよね、わかるよ、なんだか私も悲しくなってきた…」と寄り添いすぎるわけでもなく、

また、「どうせ人は変わらない、価値観が違う人間とは関わるな、放置。」ではない、新たな第4の道を見つけ出すこと。

それがいま、本当に大切だなあと思う。

人々が真の意味で協力し、お互いに共同作業を行うために、僕らはそのためにコミュニティをつくっているんじゃないでしょうか。

これは、「刺激」と「反応」の間にスペースがあるというあの話にも通じる話だと思っています。

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で、ここで参考になるなと思うのは、以前もご紹介したことのある『仏教思想のゼロポイント』という本を書かれた魚川祐司さんと、僧侶のプラユキ・ナラテボーさんの対談になります。

「大切なのは、共感しても巻き込まれないこと」という小見出しの部分に書かれていた話が、今日の内容に関連して非常に示唆深いものでした。

以下で、おふたりの対談本である『悟らなくたって、いいじゃないか』という本から、少しだけ引用してみたいと思います。

プラユキ    私自身は苦しみからの解放を得るための最高の方法は仏道だと思っていますけれども、その価値を人々に理解してもらうためには、まず相手に心を開いてもらわないといけないんですね。苦しみの物語の中に巻き込まれて、それが「現実」になってしまっている人に、そこから全くdetachしたところから「これが正しい道だよ」なんて話をしても、なかなか理解してはもらえません。そうではなくて、相手の苦しみの物語の中に、私も自ら身を投じて、それを受容し共感する。ただし、それに巻き込まれるのではもちろんなくて、苦しみの物語にtouchingでありながら、その流れの中で「ピカーッ」と灯台のように、気づきの光を灯し続けておくんです。 

魚川     仏法の教えを示す前段階として、まず相手に心を開いてもらわなければならないし、そのためには苦しみの物語を受容し共感する必要がある。ただ、流れに身を入れはしてもそこに巻き込まれてはいけなくて、自分自身はあくまで相手が落ち着いて我が身を振り返るための目印となるような、「気づきの灯台」であり続けなければならない。これはたしかに、キャパシティが問われますね。


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まさにここで言う、「気づきの灯台」であり続けなければならない、という姿勢が本当に大事だなあと思います。

このような姿勢で他者と関わり続けていくことが今、僕らに強く求められているんじゃないでしょうか。

言い換えると、このスタンスを持ち続けられる者同士で、コミュニティを築いていくことが本当に大事だなあと。それが本当の意味で「生きる喜び」にもつながっていくと、僕は思います。

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じゃあ、それは一体、なぜなのか?

他者に向かって自己を開くことの意味についてちょうど、最近頻繁にご紹介している南直哉さんの『「悟り」は開けない』の本の中にも、書かれてありました。

南さんは、人間にとって絶対にわからないもの、それは「死」であると語ります。

これだけは「絶対」という枕詞を付けても許される、と。

そして、この無意味でわからない死を、無意味でわからないままに受容することを、私は「ニルヴァーナ」つまり「涅槃」だと考える、と。

その無意味を怖れることも、その無意味に憧れることも、無視することも欲望することもなく、ただただ受容する態度が「死」を「ニルヴァーナ」に転換するのです、と書かれてありました。

で、そのために実践することが、2つあるのだと南さんは言います。

以下、本書からそのふたつの実践について言及されている部分を引用してみます。

では、実践としてはどうするのか。基本はふたつです。     ひとつは、意味を欲望する自意識を解体する身体技法(坐禅)を習慣的に行い、「自己」の実存強度を低減する。     
    もうひとつは、同時に「自己」を「他者」に向けて切り開く。具体的には、他者との間に利害損得とは別の関係をつくり出す。その根本は、何か行動する場合に「他者」を優先することです。     ただ「他者」の優先は、他人の要求に無条件で従うことではありません。もしそうなると、他人から支配されことと同然になり、関係が窮乏して維持できなくなります。     
    大切なのは、「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」ことです。相互理解の土台はこの行動です。そして、仮にその行動から利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をするのです。 これは「他者に課された自己」をそのものとして受容する実践なのです。


これは、本当に素晴らしい話だなあと思います。特に、大切なのは「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」ことの部分は、本当にそう。

この部分の感動が、皆さんにもどうにか伝わっていてくれたら、本当に嬉しい。

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で、この話が、先ほどの涅槃(ニルヴァーナ)の話と一体どのようにつながるのかと言えば、

この「他者の絶対的なわからなさ」が、そのまま「死の絶対的なわからなさ」とつながり、そのまま涅槃につながるということなんだと、南さんは語ります。

つまり、僕の簡略した解釈だと、

A(涅槃)≒B(死の受容)
B(死の受容)≒C(他者の受容)
A(涅槃)≒C(他者の受容)

という三段論法の構造です。

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最後は、あまりにも壮大で抽象的な話になってしまって、わけがわからないと思われてしまっているかも知れないのですが、今日の視点は、いま本当に大事な視点だなと僕は思っています。

ものすごく単純な話として、「自己」を「他者」に向けて切り開くことが我々に課せられている課題であるという感覚というのは、意外とみなさんにも直感的にすんなりと理解してもらえると思うのです。

つまり、「僕らが今、他者との対話を大切にしたほうがいい」と感じ取っている理由みたいなものが、ココに大きなヒントがありそうだなと、僕は睨んでいるというお話でした。

そして、先人たちが「どうやらこっちに進んでも行き止まりらしい…」と様々な道筋を提示してくれた中で唯一残っているのが、この道だと思っています。

ここに今、コミュニティをみんなで耕していくことの意味もある。

もちろん、実際にそうなのかは、やってみないとわからない。

だからこそ、自らがそこにどのように関わっていけるのか、改めて丁寧に考えていきたいなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。