昨日の詩歩さんが書いてくださったブログ記事を読みながら、学生時代の黒歴史に関する内容の中で、自分自身も似たような体験をしたなあと、なんだか懐かしく思い出してしまいました。

具体的には、学生時代に貪るように読んだ数百冊の読書から得られる、自らの無知蒙昧の状態からの脱出体験のようなものに、強い高揚感を感じていたこと。

でもそれというのは、今振り返ってみると「バカの山」そのものだったんだなあと強く反省してます。

それまでは、学生の身分であって、本当に何も世間や社会を知らなかったから、それでみるみるうちに、たくさんのことを知り、理解したつもりになって、あの有名な「ダニング=クルーガー効果」の中で語られるような「バカの山」の頂点に登った気になっていた。(※ちなみにこれはマシュマロ・テストなんかと同様、実際にここに再現性があるかどうか自体は怪しいらしいです)

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でもそこからも、淡々と読書をあきらめないで続けていると、千冊を超えたあたりぐらいから「絶望の谷」にまで一気に突き落とされる感覚が、ちょっとずつ出てくるんですよね。

あれだけ何でもわかったような気になっていた自分が、突如本当に愚かに感じ始めてきて、穴があるなら入りたいと思えるような段階です。

今もまさに、その長い長い谷底をずっと孤独に歩いているような気分で、いついかなるタイミングでここを抜け出さるのかも、皆目検討がつかない。

そして、自分自身も未体験ゾーンではありますが、ここからさらにくじけずに少しずつ前進していき、読書の本の数が万単位に入ってくると、そこで初めて「啓蒙の坂」に入り始めるんだと思います。

(もちろん、ここではあくまで定量的に判断できるようにわかりやすく「書籍の冊数」で示していますが、自分で考える「思考の深さ」そのものを指しているので、それぞれ他にわかりやすい感覚値で置き換えながら読んでみてください。)

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ただ、現代の特殊性というのは、この「バカの山」の上から、山に登ろうともしない左側にいる山の麓にいるひとたちに向けた、書籍や無料のコンテンツばかりが、世の中に溢れかえっていることです。

そして「ここまでの登山こそが、人生そのものだ」と嘯くようなひとびとが世の中には本当にすごく多いなあと。しかもその場合、ほとんど悪意がありません。自分が「山の頂点」に居るとまったくもって信じて疑わないからなのでしょう。

そして現代は良くも悪くも、その位置にとどまることで、何の不自由もなく生きていけてしまう。

学生時代に数百冊読み込んで、そんな昔とった杵柄みたいなもので、そのジャンルに対して詳しくない人たちを、淡々と啓蒙しつづけることで大体の人はマネタイズができてしまう。

それで食うには一切困らないどころか、承認欲求までしっかりと満たさせてしまう。本当に良い時代になったなあと思います。

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そして、もちろんそれが悪いわけでは一切ないと思います。

だから、そうやって悠々自適に暮らしている人達からすると「絶望の谷」にわざわざおっかなびっくりしながら降りていこうとしているひとたちを見ると、純粋に「え?何しているの?」と見えるんだと思うのですよね。

「登ってきた方向に対して、まだその麓にいるひとたちに向けて、今あなたが手にしている知見をただわかりやすく提供さえすれば、一生安泰で暮らしていくことができるのに」と。

「そうすれば、いつまでも幸福な生活ができてしまうんだよ」と。

その助言というのは、決して何ひとつ嘘じゃないと思います。そして「思考よりも、行動をしろ」というふうに訴えかけてくるひとたちの多くも、その類いの観点からなのだと僕は思っています。

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彼らからすると、自ら望んで「生きづらい」ほうに飛び込んでいるように見えるはずなのです。

でも、「バカの山」のてっぺんにとどまることに満足できない人たちは、間違いなく一定数存在していて。

それでは、生きている実感がまったく湧かずに、他でもなく、何よりも自分自身をずっと騙しているような気持ちに襲われるわけですよね。

自分も間違いなく、そんなひとりです。

大事なことなのでここは繰り返しますが、バカの山の頂点にいるだけで、何不自由ない生活ができることこそが、現代社会の素晴らしさです。

これは、ここ10年で本当に一番大きく変化したことのひとつだと思います。

いわゆる世間の人々が追い求める「贅沢」は、バカの山の上ですべてできる。もちろんそれは物質的な豊かさだけでなく、人間関係にも恵まれて、何不自由ない裕福な生活を送ることができます。

そんな生き方を、僕は一切否定をしない。自分自身の中に納得感があるのであれば、非常に素晴らしい生き方だと思います。

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そもそも、絶望の谷の入口さえ見つからないひとにとっては「それ以上、何がこの世に存在するの?」っていう感覚でもあるのだと思います。

とはいえ、人生というのはどれだけ足掻いてみても、たった1度きり、なんですよね。できることなら「啓蒙の坂を登ってみたい」と思ってしまうのは物好きの性だと思います。

そして、そのためには必ず「絶望の谷」を経由する必要がある。

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で、ここからが今日の一番の本題なのですが、そのための絶望の谷に降りていく仲間がいるってことが、ものすごく大事だなあと思うのです。

仄暗い谷底に進んでいこうとするとき、どれだけ覚悟や肚が決まっていても、足がすくむことは必ずあるはずですし、やっぱり戻ろうかと思ってしまうときもあるはずだと思うんですよね。

ここを降りていって精神がおかしくなり、そのまま生きて帰らなかったひとたちもたくさんいると各方面から風の噂で聞こえてもくるわけですから。

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もし、海外に留学や移住経験がある方は、あの留学初日の日の夜、ひとりベッドの中にいたときのような孤独感みたいなものを思い出して見てもらえると、きっとそれが一番似ている心境なのではないかと思います。

あの夜、きっと多くの人がこう思ったはずなのです。

「なぜ、わざわざあんなにも暮らしやすい日本という国を脱出し、知らない人間しかいないこんな異国の地までやってきて、ここまで心細い気持ちに陥らないといけないのか」と。

日本で何一つ不自由なく幸福な人生を過ごして死んでいったひとたちだって山ほどいる中で、なぜわざわざ自分は、こんなにも絶望の淵に立たされるような選択をしてしまったのか、と。

そして、慣れない生活や慣れない食事の中で身体を壊し、風邪を引いたりして異国の地で一人寝込んだ日には、必ず強い強い「後悔の念」のようなものが襲ってきたはずです。

でも、それでも、その一通りの海外生活が終わってみると、本当に来てみてよかったなあと腹の底から思ったはずなんですよね。

そして、そのあと日本に戻ってきた後も、いつまでも忘れることのないかけがえのない体験となっているはずなのです。

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さらに、振り返ってみて、日本を出る前の自分というのは「バカの山」のてっぺんにいただけだったんだと、強く自覚できたかと思います。

そんな留学の比喩と全く同じことが書籍を読むことや、思考レベルにおいても起こるはずなんですよね。

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だからこそ、そこに行くために励まし合える仲間を見つけて欲しいなあと僕は強く願います。

「絶望の谷」を目指すのが当たり前だというような環境に身をおいていれば、自然と自分自身もその谷底に対して興味を持つようになるはずだから。

留学経験があるひとたちもきっと、高校や大学時代に、周囲に留学に行く人が多かったはずです。このあたりは、何よりも周囲の人々などその環境要因が一番大きいわけですから。

一回絶望の谷に行く人たちに囲まれると、そのまま自分も当たり前のように降りていけるようになる。

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つまり、「バカの山の頂上から発せられる声は静かに無視して、淡々と絶望の谷に降りていこう」という提案が、このWasei Salonの「私たちのはたらくを問い続ける」の「問い続ける」という部分に込められた意味合いでもありたいなあと。

もちろん、これは決して強制をしているわけではありません。ひとそれぞれの役割や、それぞれのタイミングというものが必ず存在する。

決して、全員がそこを訪れればいいというわけではないはずです。社会というのは盛大な役割分担でもありますからね。

ただ、自分自身の人生に対して、何か大きな嘘をついているような自覚があるひとには、バカの谷を超えて一緒に啓蒙の坂を目指してみましょうとぜひ伝えたい。そして、いつの日か「継続の大地」に到達できることを目指して。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。