コミュニティを運営していると、「このコミュニティはこれからどこに向かうのか」とよく聞かれます。
しかし、自分の中にはそのような明確な方向性はありません。
むしろ、メンバー一人ひとりが自分なりの道を歩んでいって欲しいなあと素直に考えています。
きっと大切なのは、そのときのマインドセットのほうだと思うんですよね。僕自身としては、コミュニティをひとつの方向にまとめ上げたいわけではない。
そうじゃなくて、これはずっと語り続けていることではありますが、個々のメンバーがそれぞれに「より幸せで、納得感のある生き方」をして欲しいなあといつも願っています。
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でも、このような考えを伝えることは意外にもかなりむずかしく、なかなかに理解されないもどかしさみたいなものも常に感じてきました。
そんな思いを抱えていたときに、作家の若松英輔さんが有料のVoicyで語っていた話にとてもハッとして、それが一体どのような内容だったかといえば「日本にキリスト教が入ってきて以降、仏道が仏教なった」というフレーズです。
有料の配信なので、詳しくはぜひ本編を聞いてほしいのですが、このもともとの「仏道」という考え方に、僕は強く心を打たれました。
そこでふと気づいたのです、僕がみなさんと共に大切にしたいのは「教え」ではなく「道」なんだろうなあということを。
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この「道」というのも、一見すると「一つの価値観」のように感じられるかもしれないですが、決してそうではないはずです。
それは、それぞれ各人の人生の道の上に、もう一つ薄いレイヤーとして敷くことができる絨毯のようなものとして捉えています。
たとえるなら、みなさんがすでに歩んでいるそれぞれの道に、ちょっと格式高くなる透明なレッドカーペットを敷いてみるようなイメージです。ちょっと違うかな、でも本当に感覚として伝えたいのは、そんなイメージなんです。
自らの「はたらく」に少し誇りが持てるようになる、そんな認知の違いみたいなものを、一体どうやったらつくり出せるのかを、僕はずっと考えている。
少なくとも、この場において重要なことは、一つの大きな道を整備して「みなさん、この新しくできた大通りをぜひ通ってください!」と呼びかけることではないのだろうなあと。
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もちろん、今日ここまで語ってきた話は、僕のオリジナルの発見でもなんでもなくて、最近読んでいた社会学者・橋爪大三郎さんと大澤真幸さんの対談本『ゆかいな仏教』という本の中で語られていた話を、大いに参考にしています。
皆さんもご存知、仏教において「空」を説いたあのナーガールジュナ(龍樹)の話が、本書の中でも丁寧に語られていて、そのナーガールジュナの教えと、コミューン運動が対比的に語られてありました。
いわゆる通常の人生においては、お金や権力など、様々な世俗的な価値観に囚われがちになってしまうのが、僕ら人間です。
そんな中で、多くの人は、自らの人生哲学を発見するまでもなく、生まれてはただ死んでいくだけなわけですが、果たしてそれは本当に主体的に生きているといえるのかどうか。
それは、単に常識や言葉の罠にひっかかっていて、ただ漠然と人生を送ってしまっているだけではないか。
このような疑問に対して、新しい政治運動、宗教運動が常に勃興してくる、それが一般的な流れだと思います。
しかし、ナーガールジュナの思想は、それとは異なるアプローチを取りるわけなんですよね。
本書から、橋爪さんの言葉を以下で少しだけ引用してみたいと思います。
コミューン運動であれば『この世界は間違っている。もっと新しい友愛の世界を、山の中などの別な場所につくりましょう。政府をつくって、法律をつくって、新しい人間に生まれ変わりましょう』などと言うわけですけれども、大乗とか『空』の思想はそうなっていなくて、『常識と言葉の罠からあなたを解放してあげましょう』なんですけれど、解放した後も、見かけ上、その人は同じ言葉をしゃべって、同じように常識的に生きているわけです。別な社会をどこかにつくろうという考え方ではない。
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つまり、ナーガルジュナの考え方に触れた人たちは、外見上は昨日とまったく同じ生活をしているわけですが、内面では大きな変化を経験しているわけです。
昨日と今日とで、まったく同じことをしていても、その意味合い自体が、大きく異なってくるわけですよね。なぜなら自分自身が変わるから、です。
そして、橋爪さんは続けて以下のように語っています。再び本書から引用してみます。
二重の人生になるわけです。たとえば、先ほどのパン屋さんの例で言えば、ただもう『親もパン屋さんだし、パン屋さんをやってパンを焼いていて文句あるか』という人と、それから『大慈悲のためにパンを焼いているんだ。これは仏道だ、仏の慈悲だ』と思ってパンを焼いている人と、どこが違うかというと、外見上どこも違わないわけです。でも本人にとっては、二重の意味をもっているわけですよ。
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この「二重の意味を持つこと」が、人生に大きな影響を与えるんだと僕は思うんですよね。
人生の晩年において、死を目の前にして「自分の人生は何だったのだろう…」と思い悩むとき、二重に生きている人は強さを持つのだ、と。「私はそれなりに仏教者として慈悲の立場で、持ち場であるパン屋さんをやっていました」と納得できるんだ、と。
このように、真理に二重性があることによって、物事を実体のように扱いつつも「これは、本当は暫定的な作りもの、仮説の世界だ」という意識が伴ってくる。そうなると、世俗の真理をそのまま絶対的なものと信じている人に比べて、精神にも柔らかな自由度が生まれ、人生に対してより前向きになれる、そのような構造が「空」の思想には内在しているんだと語られていました。
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で、この「パン屋さんをやりながら、仏道を歩む」というような「二重の道」の考え方こそ、僕が理想とするオンラインコミュニティの姿なのではないのかなあと思います。
もちろん仏道が二重の「ソレ」であるといいたいわけではなく、もう一つの道をつくることが大事だという意味です。
よく「オンラインコミュニティは、リアルの側面が弱い」というのは、オンラインコミュニティのデメリットのように語られがちな話題です。
そして実際問題として、株式会社やローカルのコミュニティなんかと比べて、明らかにそのあたりの結束力や実効性は弱くなる。
でも逆に、それぞれがオンラインでつながって、そのレイヤーが異なるからこそ、このような二重性を担保できるのが、まさにオンラインの強みなんじゃないかと、僕は逆説的に思うんですよね。
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これがもし「リアルでコミュニティをつくりましょう」となったら、その瞬間に、どうしてもコミューン運動に近くなっていってしまう。
創始者はそのつもりはなくとも、集まってくる人々は必ずそのような態度に出てしまう。そして、株式会社や宗教のような形を取らざるを得なくなる。
それはそれで、参加者を盲信させてしまうわけですよね。二重の道にはならない。同調圧力が嫌でも高くなってしまうわけですから。
参加者それぞれが別の人生を歩むことは許されない「空気」がそこに醸成されてしまうわけです。
でも、そうじゃなくて、望んでいる姿は、あくまで主従は逆であって、ひとりひとりが主役であり、道を歩く主体である状態です。そのうえで、大事なのはどちらかといえば、「二重の道」の概念であり、その道をどうやって二重にするのか、という観点自体が本当に大事なんだろうなあと思います。
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もちろん、大きな道をつくりたかったり、何かわかりやすい教えをつくりたかったりする場合においては、引き続き株式会社や宗教のような「理念」や「教え」を布教する方が適切だとは思います。
でも現状、そういった従来の組織形態においても多くの問題が山積しており、うまくいかないケースも増えているわけですよね。
その結果、そこに所属する人々が逆に苦しんでしまっているのであれば、新たな道を模索する価値は十分にあると思っています。
僕自身、きっとその可能性みたいなものを模索してみたいんだろうなあと。
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よくWasei Salonに参加しているひとたちが、「みなさんがそれぞれに考えて、それぞれの人生を歩んでいるから、私も自分の仕事や暮らしを頑張ろうと思えました」という話を、本当に自然に自分の言葉によってナチュラルに語ってくれることがあります。
それを聞かせてもらえるたびに、僕は本当に心から嬉しいのですが、これもまさに、自分の道と、このコミュニティに参加していることによって得られているもう一つの道、その「二重の道」を歩いている感覚があるからこそ、語られる言葉なんだろうなあと思っています。
このWasei Salonは、何かひとつのイデオロギーに染め上げるための教えや、ドグマがあるわけではありません。強いて言えば、ひとりひとりの問い続ける姿勢を諦めないこと、その胆力をお互いに鼓舞し合うことを、常に重視しているぐらいです。そして、そのときはお互いに、敬意と配慮と親切心を忘れずにね、と。
でもたったそれだけを意識するだけで、それぞれが今まさに歩んでいる人生において、ものすごく励まされ、かつ勇気が出てくることなんじゃないかと思っています。
現代における二重の道としてきっと、それぐらいがちょうどいい「バランス感」なんじゃないかと思っています。
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この二重性をこれからも担保していきたいし、そうやって、今歩いている道に少しでも歩きやすくなるレイヤーとしての道を敷いていけるような機会を提供していきたい。
僕が淡々とつくっていきたい「道」や「オンラインコミュニティ」の形が、また少し明確になったなあと思ったので、今日のブログにも書いてみました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。