次回、ポッドキャスト番組「オーディオブックカフェ」のなかで、平野啓一郎さんの『私とは何か―「個人」から「分人」へ』をご紹介することになり、再びこの本を最近聴き返しました。


この本は、2012年(講談社現代新書)年に出版された本。

その後、いくたびも話題となり、2010年代にはことあるごとに、文学のジャンルを飛び越えて様々な場面で言及されていたので、既に読んだことがある方も多いはず。

僕も出版されてすぐに電子書籍版で読み終えて、その後、オーディオブック版でも2〜3回聴いていたので、今回で通読は4〜5回目です。

Wasei Salon内では、過去に読書会も開催したことがあります。

https://wasei.salon/events/c6a52106635a

みなさんと深く対話をしながら、その時に考えたことを以前もブログの中でもまとめて書いたことがあります。


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ということで、「そろそろ、もう新たな発見はないかな…?」と思いながら聴いてみたのですが、やっぱり「同じ川に二度入ることはできない」とはよく言ったもので、また新たな発見がありました。

それが今日、ここでご紹介したい「分人主義における自己肯定と、ナルシシズムにおける自己愛、その違い」のお話です。

なぜ、この部分をこれまで見落としてしまっていのか。それが本当に不思議なぐらい、とても大事なことが書かれてありました。

早速本書から少し引用してみたいと思います。

分人は、他者との相互作用で生じる。ナルシシズムが気持ち悪いのは、他者を一切必要とせずに、自分に酔っているところである。そうなると、周囲は、まあ、じゃあ、好きにすれば、という気持ちになる。
しかし、誰かといる時の分人が好き、という考え方は、必ず一度、他者を経由している。自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。


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「あなたといるときに、引き出される私(分人)が、私は好き」という状態と「世界がどうであれ、関係がない。俺はいつだって俺のことが大好き」という状態。

両者ともに同じ自己愛ではあるのだけれども、ここには月とスッポン、雲泥の差があるということですよね。

で、これはまさに、仏教における縁起みたいなものを信じるのか、それとも一神教的な世界「つまり唯一絶対の神と私」の間における「私」を信じるか。そんな違いにもつながるなと思ったんです。

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過去に何度もご紹介したことがありますが、仏教は常に縁起と慈悲の話をしている。

つまり他者や環境、その相互作用や関係性を重視した話をしているわけですよね。

自己でさえも、結局はその縁起の中に立ちあらわれている一瞬の存在であって「永遠不変の自己」など存在しないと語るわけです。

一方で、キリスト教をはじめとする「一神教」は、常に「絶対的な神と私」の話をしている。

「いやいや、キリスト教も汎神論など、環境や世界に対しての関わりの話をしているだろう」と思われる方もいるかもしれません。でも、それこそが汎神論の立場のひとたちが「神と私」の話しかしていない証でもあると思います。

つまり、世界や環境こそが「神のあらわれ」であると汎神論は考えていて、周囲のすべてをイコール神として捉えて、やっぱり絶対的な神と向き合おうとしていることにほかならないわけですから。

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そのふたりだけの世界、ふたりというと語弊があるかもしれないけれど、神と私だけの密室の中の関係性を、常に想定しているわけですよね。

そして、そこにいるときの私こそが絶対普遍の「私」である、と。

だから、「最後の審判」のような解釈だってキリスト教の中には生まれてくるわけです。

でも、仏教の立場はそうじゃない。

そもそもそんな絶対普遍の「私」などは存在しない。いや、私だけでなく、環境も含めた、この世界すべてが縁起であると語るわけですよね。

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で、これは完全に余談ですが、先日、小説家・朝井リョウさんのインタビュー動画の中で知ったのですが、

タレントの指原莉乃さんは「結婚願望はありますか?」というありがちな記者からの質問に対して「日によります!」と堂々と答えていたらしいです。この話に衝撃を受けたというお話を朝井リョウさんがされていて、それがめちゃくちゃおもしろいなと思いました。

とても彼女らしいウィットに飛んだボケにも思えるけれど、でもそれこそが本質だよなと僕も思います。

本当は「日々刻々と変わりつづける私」こそが当たり前で、「いつも変わらない私の結婚観」なんて存在するわけがない。

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で、この朝井リョウさんの話を聴きながら、僕は、養老さんの「霊魂の不滅がないと、キリスト教は根本的に成り立たない」という話を同時に思い出しました。

これがまさに今日の話にも通じる内容です。

「変わらない私がある」ということは「魂」という変わらないものが、最後の最後まで残っているということです。

「でも、日本では一切、こういう議論をしてこなかったと思いますね」と養老さんはバッサリと語ります。

以下は、『真っ赤なウソ』という養老さんの本から、引用してみたいと思います。

そういうこと(キリスト教が考える霊魂の不滅)に対して、仏教の立場から本気で考えたら「それはおかしいよ」と、どこかから声が出ないとおかしいと私は思うんです。そもそも坊さんの世界こそ、「諸行無常」であって「無我」の境地なんですから。「無我」という意味は、「考えている私がない」ということではないんですよ。「考えている私」は、必ずある。ただいま現在あるんですから。だけど、それは絶えず変わっていくものなんですから、「どれがおまえだよ」っていうことになるんですね。


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で、以前もご紹介した、内田樹さんの「知性」の話なんかもこことつながるはずで、非常にわかりやすい。

内田さんは、常に自分自身は「個人ではなく、集団的に発動する知性や能力を高めるためにはどうすればいいかということを優先的に考えている」と語っていました。

そして、真に「知性的な人」というのがいるとすれば、それはその人がいることによって、まわりの人たちの知性が活性化して、人々が次々と新しい視点から新しいアイディアを思いつくようになるんだ、と。

僕もこの点に関して、本当に同意です。

つまり、知性的な人(個人)がいるのではなく、知性的な集団やコミュニティがあって、その場にいる人々の言葉遣いや立ち振舞いが相互作用をして(つまり縁起)、知性的なひとたちのコミュニケーションが自然と創発されていくようなイメージなのだと思います。

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まさにこれが、今日の主題にもつながっていく。

冒頭でご紹介した平野啓一郎さんの話に紐づけると、ナルシシズムは、自己の知性の発露として、それこそが正解だと思われているのだけれど、でも実際にはそうじゃないわけです。

わかりづらいかもしれないけれど、今これはものすごく大事な観点だなと思う。

そして、まさに個人主義の隣人愛と、縁起を重視した共同体に立ちあらわれる慈悲の違いです。

もちろん、これは「良い・悪い」の話ではない。どっちが正解だという話でもないと思います。

実際、どっちの論理でも駆動している社会が世界に存在しているわけだから。

また、どっちにも人類史上最悪な失敗例だって、たくさん存在する。(全体主義や帝国主義など)

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だとすれば問題は、どっちを信じるか、だと思うのです。

もっと言うと、自分はどっちに賭けるか、です。

僕は、キリスト教の世界認識は、原理的に考えたら間違っているとは思うけれど、物語としては一級品なわけですよね。少なくとも2000年以上続いている。

つまり、一番世界で信じられている物語です。

であれば、そんな「嘘から出たマコト」のほうが、紛れもない「真実」であって、人間にとっての「真善美」があると考えるのも、とてもよくわかるし「そっちのほうが人間にとって”本当の真実”だろう(少なくとも現代においては)」と言われたら、ぐうの音も出ない。

それは間違いない”真実”です。

サッカー場では、絶対に手は使えないと同じ話。「手を使えないというのは、フィクションだろう」とどれだけ言ってみたところで、世界がサッカーのルールで続いている限りは、どちらにせよ、手は使えないのだから。

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でも僕は、どっちを信じるか、どっちに賭けるかと問われたら、やっぱり、自己なんて存在しない、神も存在しない、すべては関係性の中における縁起であり、その中で慈悲を実践しながら、共同体において本当の慈悲を顕現させていきたいなと思う。

それを自らが携わるコミュニティにおいて実現させていきたいことでもあります。

どこまでいっても、個人(主義)の限界があると思うから、です。

そして、個人と個人の間に橋をかけていかないと、何か大事なものを見失うと思うから、なんですよね。

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AIのおかげで(せいで)、すべてを棲み分けて究極のエコーチェンバー、フィルターバブルは、もうまもなく完成する。

個人主義が主流の現代において、その繭の中のほうが気持ちよさそうに見えるから、その個人主義が完成する時代は必ずやってくる。

結果として、不協和音が一切存在しない「多元主義の末路」が、そこに実現する。

でも、その実現した状態というのは、すべての欲望を満たしてタワマンのペントハウスに、一人で住むような孤独にちかいものになるはずです。

だからこそ「その後、どうやって生きるか」という問いも、これから必ずやってくると思います。

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だとすれば、そんなこれから必ずやってくるそんな未来を見据えて、僕は、今回の人生においては「共同体による慈悲」のほうに賭けたい。

(少しスピっぽいけれど、前世はきっと「個人主義」に賭けた人間だと自認している)

でも一方で、共同体やコミュニティの危険性に対しても、常に警鐘を鳴らし続けたい。


その矛盾というか、ジレンマを抱えながら、今回の人生は歩んでいきたいなと強く思います。

今日のこの話は、ルソーの個別意志の総和である「全体意志」と、本当の意味での調和である「わたしたちの美」としての「一般意志」の話にも見事に通じるはず。


そうやってすこやかに掛け合っている縁起や共同体の中にだけに生まれてくるものが「一般意志」だと思うのです。

「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある」というのは本当に強くそう感じる。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。