SDGsの標語を掲げたイベントや反戦デモ、社会活動に参加することには違和感がある。

でも一方で、ネット上に多く存在する人々のように、一日中ゲームばかりしてみたり、Netflixやネコの動画ばかり観ているのにも違和感がある。

そんな私は一体どうすればいいのか。

世界が大きく揺り動いている今のような状況下では、そのような社会との関わり方に悩む若いひとって、意外と多いと思います。

この点、まず僕が思うのは、どちらに違和感を持つことも決して間違っていないということです。

社会運動やデモは遅かれ早かれ必ずどこかで粛清に向かってしまう。一方で、引きこもりは社会への無関心へとつながってしまう。

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この点のモヤモヤに対して、以前もご紹介した『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』という本の中に、とても面白いお話がでてきます。

それが「コミットメントとデタッチメント」の話。まさにこのような葛藤を言い表してくれています。

同じく河合隼雄さんの『こころの読書教室 』という書籍から、本書を要約してわかりやすく伝えてくれている部分をご紹介してみたいと思います。

ー引用開始ー

その中(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)で、村上さんがデタッチメントとコミットメントのことを言ってるんです。特にいまの若い人たちはよくわかると思うんですが、かつての学生運動のときっていうのは、皆、コミットしたんですね。「なんとかして、頑張って日本を変えたい」、あるいは、日本を変えられないにしても、せめて日本の大学を変えたい、あるいは日本の教授どもを変えてみたいと思って、この中にもおられると思いますが、ずいぶん頑張った人たちがいましたね。ところが残念ながら、何も、ほとんど変わりませんでしたね。

(中略)

当時わかってきたことは、一つのイデオロギーを信じても、「イデオロギーで世の中がよくなる」なんていうことはないということでした。いちばん大きい実験は共産主義ですね。共産主義というイデオロギーでやれば、バラ色の世界、理想の社会がつくれると思っていたのに、ぜんぜんできなかった。それどころか逆のことになってしまって、いまはご存じのように、それは崩壊してしまったわけです。     

だから、イデオロギーで頑張ったところで、どうにもならないのなら、まあ、好きなようにするわ、勝手にしやがれ、と。それはデタッチメントですね。だから、デタッチメントの強くなってきた学生さんは、「人のことは放っておけ、俺は好きなことするから」ということになる。もうちょっとデタッチしてくると、「俺は、一人で引きこもってるわ」ということになるわけです。

ー引用終了ー

この引用部分からもわかるように、いつの時代も社会が大きく揺れ動いているときには、似たような感覚で引き裂かれている若者たちがいる。

学生運動が盛んなときも、現在と同様、ベトナム戦争の真っ只中でしたからね。

でも、そのノリについていけない人たちは、やっぱり当時もいたわけです。

じゃあ、そのような社会状況の中で、コミットメントもできず、デタッチメントメントにも違和感を持つひとたちが、第三の道としてどこに向かったのか。

引き続き、本書から少し引用してみます。

ー引用開始ー

だからまあ、デタッチしとこう。そして、そのときに引きこもってしまってもしょうがないけど、適当に、なるべく他人と関係がないようにしよう。そう思って生きてる人が多いんですね。しかしそれでは人生、面白くない。何か勝手なことをすると言ったって、皆と離れて住んでおるのでは意味がない。さっき言いましたように、ほんとうに生きているというのは、やっぱり人とのかかわりがないと駄目でしょう。

だから、いっぺんイデオロギーでコミットして、「いや、こら駄目や!」というんでデタッチしたんだけれど、もういっぺん、ほんとうにコミットしないと人生面白くないとなったときに、村上さんの言ってることはすごく面白いんですね。

村上さんが、その『河合隼雄に会いにいく』の中でどんな言い方をしたかっていうと、村上さんの言葉です。 「井戸を掘って、掘って、掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように僕は非常に惹かれるのだと思うのです」

ー引用終了ー

いかがでしょう。この「井戸を掘る」という第三の選択肢が僕はいま本当に大切だなあと思います。

社会からは一定の距離を取りつつも、決してコミットすることを諦めるわけでもない。

外側(社会)を自分たちの思い通りにコントロールしたりハックしたりするのではなく、自らの内側をドンドンと掘り下げていきながら、その先の壁が抜けたところに、社会との新たなつながり(接点)を見出していく。

この方法であれば、粛清につながることもないですし、お互いが無関心を貫き通すわけでもない。

このように、自らの井戸を掘ろうとする若いひとたちが増えてくれば、また少しずつ違う形で世の中は変わってくるのではないでしょうか。

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ただし、孤独にひとり自己の内側(井戸)を掘り下げていくというのは、なかなかに難しいことです。

そもそも、そんな孤独な作業には多くのひとが耐えられないから、何か大きなイデオロギーにコミットメントしたくなってしまうわけですよね。

だから、それぞれが自分の井戸を掘り下げている仲間が集う空間がひっそりとあればいいなあと思います。

そしてそこで、お互いにちょっとしたコミュニケーションがとれて、休憩時間に声がけができるような空間になっていればいい。

それは、ベタベタと付き合い、相手のことを監視し合うような空間でもなければ、誰が何をしていようと関係ないとそっぽを向く空間でもなく、それぞれが自立して各人の井戸を深く掘りつつも、お互いに敬意や関心もまた寄せ合っているというような。

大きな円を、内向きではなく、外向きでみんなで囲むように。もちろん、それがこのWasei Salonの役割のひとつであって欲しいと強く願っています。

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社会運動にも引きこもりにも、どちらにも違和感があるというひとは、自らの井戸を淡々と掘ってみることを強くおすすめしたい。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの参考となったら幸いです。