僕らは何か問題が生じると、最初に掲げた計画や仕様と異なるところ、その「悪い部分」や「間違っている部分」を探し出そうとしてしまいます。

でも最近よく思うのは、最初の想定通りにうまくいっているからこそ、その課題や悩みというのは生じてしまっているのだろうなあと思うのです。

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たとえば、子供たちの生きがいの問題。

衣食住足りて、友人たちといつでも繋がることができ、本や映画など夢や希望の溢れるコンテンツにいくらでも触れることができれば、子供たちの未来は明るいと大人たちは勝手に思っていた。

実際、自分たちが子供のころは、それらの条件が満たされることを強く渇望していたわけですからね。

でも現代において、それらが全て達成された結果、全く別の問題が生じてしまっています。

すべてが満たされた世界で暮らしているからこそ、子供たちは不登校になり、夢や希望を見失ってしまっている。

大人たちからすれば、あれほど待ち望んだ世界が訪れているにも関わらず、なぜ子供たちはこんなにも不満そうなのかと逆に混乱し始める。

何か子供たちのほうに問題があるのではないかと、勘ぐりたくなるわけですよね。

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また、それゆえに自分たちの子供時代は良かったと思い始めて、なんとかして「過去に戻ろう」とする動きも生まれてきます。

しかし、当時は当時でやっぱり別の犠牲が生じていた。具体的には、目には見えない人々(女性など社会的立場が弱かった人々)の犠牲の上に成り立っていた部分なども非常に大きかった。

つまり、過去は過去で都合が悪いことも間違いないのです。

また、世界全体は否応なしに未来に進もうとする中で、自分たちだけが過去に後戻りすることはできません。

進んでしまった世界の中で、新たな科学的な進歩もちゃんと取り入れていきながらも、なんとか自分たちの価値観や考え方のほうをアップデートしていかないといけない。

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それは、人々の節制なのかもしれないし、きめ細やかな配慮なのかもしれないし、もっともっと異なる倫理的な何かなのかもしれない。

何にせよ、社会の問題も個人の問題も、世界を機能的に能率良く変化させようとした結果、それがあまりにもうまくいきすぎてしまったがゆえに、現代のさまざまな問題が生じていることは間違いないと思います。

そんな世界で従来の価値観(能率主義)をそのまま継続していたら、溝は深まるばかり。

際限なく進歩していく世界の中で、人間の価値観のほうもしっかりとアップデートしていく。

それが現代に生きる僕らの役割なのではないでしょうか。

そのためには、外的な世界を人間の思い通りにコントロールしようとすることばかりに努めるのではなく、昨日も書いたように「自らの井戸を掘ること」がより一層重要になってくるのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。