「出会っては、戻っていく」
その循環にこそ価値があると感じ、日本特有の「豊かさ」がこの循環の中に含まれていることがよく理解できる。
それを人々は「無情感」や「あわれ」と呼び、
「去っていく姿こそが美しい」のだと、その惜しむ気持ちを自ら必死で感じようとしている節さえあります。
言い換えると、人の心を強く打つような感動やしみじみとした情趣は、その循環の中にこそ生まれると信じてやまないわけですよね。
日本で古くから愛されている『古事記』のヤマトタケルの物語や、源義経の物語なんかもまさにそう。
決して、栄華を極めた話だけではない、悲運な運命を辿る主人公も同じように慕ってしまうのが日本人なのです。
ーーー
これは、欧米的な「発展、蓄積こそが、豊かさである」という感覚ともまた異なります。
客観的に測量不可能な、ただ出会っては戻っていく循環こそが日本人にとっては重要で、
その循環の質、いかに淀みなく、けがれなく「あわれ」を体験できるのかを重要視してきた。
これは、とっても不思議なことです。
それはなんでもないこの場所が、少しだけ寂しく成る感覚。
客観的に眺めると、ある種の自傷行為のようにさえ思えてしまいます。
しかし、それを体験した自分の心は、もう以前とは全く異なる心になってしまっている。
つまり、目に見える外形的な変化ではなく、その複雑な心境の変化のほうに目を向けたいという願望でもある。
それこそが、日本的な「あわれ」を尊ぶ感覚なのだと思います。
ーーー
そんなことを考えながら『平家物語』の冒頭文をふと思い返してみると、
誰もが知るこの冒頭文のあまりの美しさに、つい感激してしまいます。
少しだけ引用してみましょう。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。」
ーーー
特に、「ただ春の夜の夢のごとし」の部分が恐ろしいほどに美しい。
本来であれば、いかに平家が発展、蓄積をしてきたかを語りたいはずですし、聞きたいはず。
しかし、語る側も聞く側も「あれは春の夜の夢のようだった」と感じたい。
すべては「あわれ」という感情を感じたいからこその前振りであり、まるで前座のような形で平家のドタバタ劇が語られるわけです。
彼らの躍進は全くもって無意味だったと言わんばかりに。
でも、それが無意味だからこそ「あわれ」を感じられるのだと。
ーーー
ここまで読んで「鳥井は一体何を言っているんだ…?」と感じる方もいるかもしれません。
ただ、意外と現代における日本人も知らず知らずのうちに受け入れている感覚だと思います。
例えば、サウナ、水風呂からのととのう感覚。
これも立派な循環であり、ととのう(ゼロに戻る)感覚を味わいたくて、なんの発展も蓄積もない循環をただ繰り返しているわけですからね。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
ーーー
5月のWasei Salonの説明会&外部イベントはこちら。
https://twitter.com/WaseiSalon/status/1387223421008760834