昨夜、サロン内で恒例の映画感想会が開かれました。

参照:ギフトと呪いは表裏一体。天才は、天才であるがゆえに苦悩する。

お互いに映画を観た感想をポツポツと話し始めて、対話をしながら作品の魅力を深堀りしていくと、同じ映画を二重三重にも味わったような感覚になっていきます。

この実体験を通していつも思うことは、きっと映画は「球体」みたいなものなのだろうなあと。見る角度によって、その見え方がまったく異なってくる。

でも、僕らは映画でもドキュメンタリー番組でも書籍でも、平面(スクリーン)を通して眺めているから、一面的で「四角い板」のようなものだと勘違いしてしまいがち。

つまり、実際には自分が見たいようにしか見ていないのです。本来は球体のようなものにも関わらず、です。

だから、様々な角度から眺めてみないと、その全貌は見えてこないのだと思います。

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じゃあどうすれば、より球体(本来のかたち)に近い状態で眺めることができるのでしょうか。

そのためにはまず、「今・ここ・私」というしがらみから抜け出す必要があるのだろうなと思います。

具体的には、時間軸を動かしてみる。空間軸を動かしてみる。そして「私以外の視点」を通して、他者の視点から眺めてみる。

そうすることによって初めて「いかに自分は何も見えていなかったのか」が見えてくるのだと思います。

(ちなみに「今・ここ・私」という発想は、内田樹さんの『街場の芸術論』に書かれていた「系譜学的思考においては『節度』が大事」というお話からお借りしています)

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この点、近年までの(いや現在も進行中の)コンテンツの消費の仕方は、コンテンツを量産し、そのコンテンツを個人が大量に安価で浴びることができる、Netflixやアマゾンプライム、You Tubeのような仕組みで、それが人々の「多様性」を引き出すと信じられてきました。

家にいながらにして、世界中に偏在する大量のカメラの視点を享受することができれば、独りよがりな発想は消え去って、多様性を認め合う社会になっていくだろう、と。

でもその考え方は明らかに間違っていたことが証明されました。この過ちは、松下幸之助の「水道哲学」のようなものにも近いと思います。

水道哲学というのはもともと、戦後すぐの日本において「乞食が公園の水道水を飲んでも誰にも咎められない。それは量が多く、価格が余りにも安いからである」という持論を述べて、同様に、商品を大量につくり、誰もがまるで水道水のように商品を安く手に入れることができれば、暮らしは豊かになる、私はそういう社会を作りたいという、松下幸之助の熱い想いだったはずです。

でも皆さんご存知のとおり、この考え方は、戦後から復興する高度経済成長時代の日本では功を奏する考え方であったとしても、現代においては、商品が完全に飽和状態に達してしまい、逆に環境問題やサスティナブルの問題に発展して、今や人々の豊かな暮らしを脅かすような発想でもある。

同様に、どれだけ大量にコンテンツを浴びてみても、「今・ここ・私」の視点から一切動こうとはしなければ、逆にドンドン人々の思考は凝り固まっていき、コンテンツを増やせば増やすほど「多様性」とは真逆のベクトルに進んでしまっているという状況が、今はっきりと浮かび上がってきてしまっていると思うのです。

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ゆえに、僕らがいま本当に実践し抜け出さなければいけないことは、目の前を通り過ぎる「コンテンツの数」を増やすことではなく「今、ここ、私」という一義的な見方から脱することだと思います。

それが、他者の置かれている状況を理解することに本当の意味で役に立ち、そこで得られた気づきや発見を「鏡」のように見立てながら、自らの置かれている状況も本当の意味で理解する姿勢にもつながってくる。

もうお気づきだと思いますが、この作業は絶対にひとりでは不可能なのです。

複数人でひとつの場に集い「この対話のなかで、私たちが無意識のうちに『今・ここ・私』に縛られてしまい、見落としているものはなんだろうか?」と、全員で意識的に解明に取り組むことによって初めて見えてくる視点でもある。

全員でひとつの作品を眺めながら、お互いに自分が本当に心動かされた点を言及し合いながら、ゆっくりと対話しないと絶対に見えてこないもの。

だからこそ、僕が、2022年現在において、この世界において圧倒的に足りていないなと思うのは、そんな「対話」の場なのです。

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このような対話の場では、「今までにはなかったまったく新しいコンテンツを創造している」とも言えるのではないでしょうか。

だって、いつの時代も僕らが新しいコンテンツに求めているものは、情報そのものではなく、その本来の目的は、新たな発見や自己変化を得ることなのだから。

決して、スタンプラリーのようにInstagramや記録アプリに「私が観た映画、私が読んだ本」などを登録して、そのいいね!の数を増やしていくことではないはずです。

たった1本の映画、たった1冊の本であったとしても、自分の中で「今・ここ・私」以外の視点から新たな発見を得て自己変革がおこれば、それは大きな大きな価値となる。

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そのためには「こんなことを言ったらバカにされてしまうだろうか、にわかだと思われないだろうか、正論(ポリコレ)に反していると思われないだろうか」など、そんな不安を感じ取って自ら口を閉ざすような自己監視型の今のSNSのような環境ではなく、安心安全の場で積極的に対話に参加していける環境が本当に大事だなと。

これからも、この場に集ってくれるみなさんと一緒に、そのような空間を育んでいきたいなあと思う次第です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。

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