都会から地方に移住すると、わかりやすく「海だ、山だ、大地だ!」ってなるひとは多いかと思います。

都会で暮らしていたときに、オフィスビルで出会った大人たちには決してできないこと(漁や狩猟や畑仕事など)ができる大人たちが目の前にたくさん存在しているから、純粋に「すげえ!」ってなる。

そうすると、都会にいたときに人工的なものへの違和感が溜まりに溜まっていたひとたちほど、その大人たちの姿に感動してしまうわけです。

地方に移住をして、大きなマイホームも手に入れ、「家族で一緒に畑仕事ができているこの時間が、なによりの幸せです」と言いいながら、非常に満足そうな表情になっていく。

「都会で暮らしていたあのときの私たちは、完全に間違っていました」と言わんばかりに、本当に驚くほどキラキラした顔になっていくのです。

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でも、そこに対して、僕は疑いの目を向けなければいけないなあと思っています。

これも、ひとつの宗教みたいなものだから。自然や地方を礼賛する宗教に改心したからこそ、それぐらい盲目的にも、狂信的にもなれてしまう。

それは、「永平寺の修行僧」や「戦争中の特攻隊の若者」が、非常に美しい顔になっていったのとまったく同じ構造だと思います。

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都会暮らしと、地方暮らしの振れ幅が大きければ大きいほど、この狂信ぶりは大きくなっていくように感じています。

真逆に振り切っていることに対して、ある種の満足感を覚えるわけですよね。

不思議なことだと思うかもしれませんが、人間は自らの過去を完全否定し、もうその価値基準に振り回されなくても良くなったと感じたとき、とてつもなく大きな快楽を得られるようにできている。

だからこそ、ゴリゴリに肉食だったひとが一気にヴィーガンに振り切ったり、バリキャリだったひとが突然スピリチュアルに振り切ったりもするわけです。

この構造からは、決して逃れることはできない。

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都会(教)にいたときの友人たちは、そのキラキラした表情の変化にとても驚き、「私も地方移住(入信)してみようかしら」となる。

もちろん、そのこと自体は決して否定しません。本当にそれぞれ個人の自由だと思います。

ただ、それは都会にいるときと全く同じ構造にとらわれているということに対しては、常に自覚的でありたいなあと思っています。(あくまで僕の場合は、です)

なぜなら、結局のところ都会(近代化)礼賛の宗教から、地方(自然)礼賛の宗教に変わっただけに過ぎないのですから。

18歳のときにひとり上京してきたときのキラキラした顔と、いま地方移住をして家族とともに土にまみれながらキラキラしている顔は、まったく同様のものだと思います。

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この点、現代を生きる僕らからすると、どうしてそこまで狂信的になれたのかと不思議に感じてしまう出来事が、過去の歴史のなかには山ほど存在している。

これは、メディアや為政者に煽られて行動し続けていると、人々はそれぐらい盲目的になれてしまうという動かしがたい事実でもあるかと思います。

そして、そのような熱狂する人々の態度こそが、これまでのたくさんの過ちを犯してきたのだと思います。イデオロギーの内容や、その主張の良し悪しじゃないのです。

右に振り切ったり、左に振り切ったりして、何か大きな理念に身を委ねてしまいたくなる、その人間の心の弱さ。

参照:自分の中に存在する無意識のヒエラルキー構造を解体できるか。

言い換えれば、他者が準備してくれている「ストックフレーズ」に頼りたくなる弱さ、そこに本来の原因がある。

参照:事前に用意したストックフレーズに頼らないで。 

これは個人単位でも、社会単位でも、国家単位でもまったく同じだと思います。

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経済や社会の仕組みが現代のようにドン詰まりになったときこそ、真逆に振ってくれる異教が必ず現れて、布教活動をし始めます。

これは自然発生的に生まれてくるものなのでしょう。(あのオウム真理教だって、バブル経済が崩壊していく脳みそ一辺倒だった社会の中で、「ヨーガ」という身体に振り切った活動をすることでその布教を行っていったわけですから)

そして、その布教活動は、実際に多くの人々に対して絶大なる効果を発揮するからこそ、広く受け入れられていくのでしょう。

一風変わった話であり、なかなか理解しにくい話ではあるかと思いますが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。