昨夜、映画『コーダ    あいのうた』を観ました。

どのシーンに一番感動したかと言えば、主人公が前半部分で必死に練習している曲を、耳の聞こえない家族の前で披露するクライマックスの瞬間に、完全に無音にしたこと。

映画の観客は、この練習している曲の本番のシーンを聴けるとずっと期待して映画を観続けているわけだけれども、一瞬にして無音にさせられ、両親と同様まわりの観客の反応からしかその完成度を想像することができない。

耳が聞こえる健常者として無意識の中で勝手に期待が膨らんでいて、その期待を一瞬にして裏切られたからこそ、本当の意味で「耳が聞こえない親とその家族が置かれている状況」を、より本質に近い形で僕らは追体験することができたわけです。

このシーンのつくり方及びその表現手法には、本当に感動してしまいました。

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さらに、この映画全体を通して、改めて強く意識させられたことは「ギフト」と「呪い」は表裏一体であるということ。

映画の中盤、歌を選んだ娘に対して、耳の聞こえない母親が「反抗期ね。もし私が視覚障害者だったら、きっと絵を描くことを選んでいた」と言い放つシーンがあります。

このセリフは、「歌がうまい」という才能は、彼女にとってギフトでもあり、呪いでもあるということのあらわれでもあると思います。

そして、似たような葛藤が描かれている映画は、『かぐや姫の物語』や『アナと雪の女王』、『魔女の宅急便』など枚挙にいとまがありません。

かぐや姫は絶世の美女であること、エルサは魔法を使えること、キキは空を飛べることとして。どれも、本人たちが望んで手に入れた“才能”ではありません。生まれたときから自然と備わっていた“資質”でしかない。

にもかかわらず、それをギフトだとか呪いだとか勝手に判断するのは、いつだって彼女たちを取り巻く家族や社会のほうなのです。

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そして僕らはどうしても、自分たちが持ち合わせている「常識」や「あたりまえ」という尺度を用いて、ただの“資質”に価値を与えて、勝手に評価を下し、それがギフトだの呪いだのと、自分たちの「ものさし」を使って断定してしまう。

このように天才(ギフテッド)は、天才であるがゆえに、その天賦の才能に苦悩するのです。だってそれは、自分が望んで後天的に獲得した能力ではないのですから。

世間が勝手に彼女たちを評価してくるその態度自体が、そもそも一番の「呪い」となってしまっている。

この点、学校から社会に出れば「かわいそう、哀れだ」という言葉を自制できる人口は少しずつ増えてくるため、自分が所属するコミュニティさえちゃんと選ぶことができれば、意識的に呪いを軽減することは可能でしょう。

しかし、「美しい」や「イケてる」など、プラスに評価する言葉に関しては自制できる人間は本当に少ないです。(もちろん僕もそのひとり)

少なくとも現代においては、それはまだ「褒める」言葉として社会の中で完全に許容されてしまっている。

つまりそれが、「呪い」にも「ギフト」にもなる才能を持ち合わせていて、そのコミュニティの狭間いる『Coda』の主人公のような子を逃げ場がない状態に追い詰めるのです。

このように、当事者にとって何がギフトだと思い、何を呪いだと感じているのか。彼女たちが置かれている状況を僕ら凡人が追体験をすることって、本当にむずかしいことなのだなあと改めて思わされます。

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大事なことなので繰り返しますが、家族関係なども含めてすべてのギフトは、あくまで“資質”として、この世界に生まれた瞬間から決まっていることでしかない。

それに対して、既にこの世界で幅を利かせているマジョリティ側の人々が、自分たちが持ち合わせている共通の尺度によって評価することが、彼女たちにとってどれだけ残酷なものなのか。

幸いなことに『Coda』のラストのクライマックスシーンでは、幼いころから無意識に使いこなしてきたふたつの「言語」が彼女の中で統一される瞬間に、その「歌唱力」と「聾唖の家族」というギフトが彼女自身にとってコントロール(受け入れ)可能なものとなったことが見事に表現されています。

こちらも、本当に素晴らしいシーンでした。

一方、『かぐや姫の物語』などは、ある種のバッドエンドということなのでしょうね。だからこそ「姫が犯した罪と罰」というキャッチコピーがあてられたようにも思います。
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「ギフト」と「呪い」は表裏一体というこの物語は、いつだって天賦の才能を持って生まれた「少女」の「思春期」の物語として描かれます。

じゃあ、なぜ少女の思春期の物語として描かれるのかは、内田樹さんが書いた「空飛ぶ少女について」という『魔女の宅急便』の映画評に譲ります。ぜひ気になる方は読んでみてください。(書籍『街場の芸術論』や『ジブリの教科書 5』で読むことができます)。

こちらを読むと「宮崎駿さんがなぜ、少女が空を飛ぶ物語ばかりを描き続けるのか」その理由のひとつが垣間見えるかと思います。

そして、ぜひ「Coda」本編もご覧になってみてもらえると嬉しいです。今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。