近年、インフルエンサーたちが行っているTwitter上でのお金配り企画も、いまNFT上で行われているフリーミント企画も、どちらもそれに興味を持っているひとたちのリストが取られていることには変わりはあません。

問題は、供給者サイドが、それをどのように役立てようとしているのか、です。

外形上は似ていても、その趣旨目的や、向いている方向は実は真逆なんですよね。


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この点まず、Twitterのお金配り企画の場合は非常にわかりやすいかと思います。

数万〜数百万というお金をもらえるチャンスがあるというだけで、自らの時間や労力を惜しみなく費やして、個人情報をホイホイと提供するひとたちのリストが淡々と集められてしまっているわけですよね。

なぜなら、そのようなひとたちをカモにして、お金を稼ぎたい人達というのが、世の中にはごまんと存在しているからです。

彼らのリストは、単純にお金になる。

本来、一番価値のあるはずの「時間」と「個人情報」を無価値だと思って、タダで手渡してくれるひとたちは、本当に簡単に騙すことができてしまいます。

更には、そのフォロワー数自体がそのまま「影響力」にも転嫁されて、そちらもすぐにお金に変わる。

今の世の中は、自分で価値を見定めることができないひとが大半であり「すごいひとが、すごいんだ」となってしまっている。

つまり「フォロワーの数字が大きいひとがすごい人なんだ」と理解されるいう逆転現象が起きてしまっているわけです。

そのようなときに、フォロワーひとりひとりの「顔」や「属人性」などは一切関係ありません。

欲しているのは、生身の人間がアカウントに化けてくれた「1という数字」であり、その「データ」であればいいわけです。

大企業やインフルエンサーが行うマーケティングや広告モデルだと、このやり方が非常に都合が良かったから、ここまでこの手法が一般化したわけです。

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でも、NFTのフリーミント企画の場合はそうではない。

つくりたいのは価値のあるNFTであり、そのためのコミュニティなんです。その場に集っているのが、一体どんな人たちなのかが非常に重要になってきます。

外見上はTwitter上のお金配りと同じように、換金可能な「NFT」をタダで配りますよという仕組みではあるのですが、そうやってタダで手渡されたNFTを、すぐに換金してしまうひとが誰なのかというリストのほうが、今度は淡々と収集されているわけですよね。

何度も何度もそれを繰り返していくことで、その精度は次第にドンドンと上がっていく。

つまり、表向きには入ってくるひとのリストを取っているようで、NFTのフリーミントの場合は、実は出ていく人のリストを一生懸命取られているわけです。

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なぜ、いまこんな変化が起きているのかといえば、もう多くの人々が単純に集まっていることには価値がある時代ではなくなってきているからです。

認知と供給量の差分こそが「価値」であり、「ブランド」という記号の正体だったということが完全にバレてしまった。

さらに、販売する商品の品質や、美しい企業理念のようなものは、もう完全にコモディティて化してしまい、それは今すぐに誰でも低予算で提供できるようになってしまった。

だとしたら、入り口のほうをドンドンと絞っていって、その価値を高める気がある人たちだけに、しっかりと集まってもらうことのほうが、何よりも重要であることは間違いない。

つまり、「中長期的な視点で物事を捉えられる賢い人たち」の取り合いがいま各所で起きているわけです。

一方で、そんな風にみんなで価値を高める方向性には一切興味がなく、目の前に転がっている現金、その私利私欲のほうを優先するひとには、その小銭と一緒に出ていってもらいたい。

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ただし、本来「出ていってもらう」って、実はかなり難しいことなんですよね。

これは、コミュニティの運営をしてみるとすぐに分かることです。

会社でも、自治体でも、学校でも、出ていってもらうというのは非常に難しいことで、ものすごく参加者側に有利なようにできている。

しかも、そのような状況下においても、あまりにも目に余る行動をした人に対して、運営者側の権限で無理やり出ていってもらおうとすると、今度はハレーションが起きやすいですし、排除された側はすぐにクレーマーへと変化してしまう。

当然ですよね、自己の尊厳が踏みにじられたように感じるわけですから。

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でも、NFTのフリーミントの場合は何がすごいかって、そういうひとたちが、自分たちのほうから、意気揚々と小銭を担いで出ていってくれるのです。

本人としては「うまいことやってやった」と思って、気持ち良く出ていってくれる。

彼らはそうすることによって「私は中長期的な目線で価値を高めるという未来像は描けない人間です」と自ら証明してしまっているわけでもある。

そして、それ以降は完全に出禁にされてしまうわけです。

これは本当にすごいことだと思います、よく考えたなあって。

そして、これが何度も何度も繰り返されていけばいくほど、その選抜基準の精度はドンドンと高まっていき、中長期的な目線で、NFT(コミュニティ)の価値を高めようとするひとたちだけが集まる場が構築されていくわけですよね。

短期的に稼いでやろうという魂胆を持ち合わせている人間が、一体誰なのかが把握されて、その人達だけが抜けてくれれば価値は青天井になり、コミュニティが理想郷になっていくと考えられるのは、当然の論理の帰結だと思います。

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これは何も、NFTのフリーミント企画に限らず、現代社会ではどのような分野においても、いまこの「排除の論理」が強く働き始めているんですよね、非常に残念なことに。

口では、誰もがカギカッコつきの「多様性」のような正論を語りながらも、本当は場にふさわしくない人間を全力で排除したいと思っている。

なぜなら、場の価値を毀損させてしまっているのは、本当に一握りの人間だと信じているからです。

逆に言うと、たった一握りの人間を排除するだけで、その正論が実現される世界が待っているとも考えるのでしょう。

だとすれば、それを排除しようとするのは、正論を語るひとほどそうしたがるのは非常によくわかるところです。

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これは、決して感情論ではなくて、いま起きている現実として正しく見定めないといけないと僕は思っています。

この点、このような「一部の人間さえいなくなればすべてが丸くおさまるのに」という施策というのは、昔はもっともっとあけっぴろげに行われていました。

それこそ大量虐殺のような手段を用いて、本当の意味でコミュニティから永久に排除されていた。

でも、現代ではもうそれが不可能です。

ただし、人間がやろうとすることは、いつの時代もだいたい同じ。

映画『PLAN 75』で描かれていた世界観は非常にわかりやすい事例でしたが、各所で自ら能動的に出ていってもらう方法が、検討されているように僕には見えます。

参照:これから生まれてくる若い人々をアイヒマンにしてはいけない。

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「誰をコミュニティから排除して、誰を出禁にすればいいのか」

オンライン上であっても、そのための判別手段が整い始めたのがまさに今。

クレジットカード会社に共有されているようなブラックリストと同じようなものが、いま淡々とつくられてしまっている。

そしてこのリストは完全にオープンになってしまう。つまり、誰でも使えるのです。それがweb3の革新的な世界観。

誰もが自分たちがこれから新たにつくるコミュニティの価値はなるべく高く保ちたいと願うはずだから、このリストを使おうとするのは人情です。

わざわざ、リスクのある人達を招こうとするひとはいない。

そのようなリスクのある人達も招くというのは、NPOのような社会包摂を優先したいと願うひとたちだけに限られるでしょう。つまり、誰でも加入できるのはそのような場所だけになるということです。

この「排除の論理」というのは、構造上しばらくは続いてしまうかと思います。

ぜひとも、それぞれに自己防衛をしていって欲しいなあと思います。どうか、目先の利益に騙されることなく。

そしてくれぐれも、このような価値を高めるための施策が、誤った方向に用いられるのではなく、場の価値を高めることで教育や福祉などを充実させて、最終的にはすべての人間を包括できる世の中になって欲しいことを祈るばかりです。

それは以前、「人格」によって選抜される世界がやってくるときに、僕らが本当に考えておくべきこと」というVoicyの配信回の中でも語ったことがあるので、ぜひ合わせて聴いてみてください。