今日は改めて、養老孟司さんの「手入れの思想」について考えてみたいなと思います。

最近語ってきた、村上春樹さんの「洞窟化」の話や、技能が優れていることよりも注意深く耳を澄ませること、目の前の相手が半身でいられる空間を提供する話なんかも含めて、基本的にはすべて、この「手入れ」の話につながるなあと思ったからです。

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この点、最近読んだ、養老孟司さんの新刊『ヒトの幸福とはなにか』に「手入れの思想」が、とてもわかりやすく完結に語られていたので、まずはこの本から「手入れとはなにか」について、改めてここでご紹介してみたいと思います。

手入れの対象は自然物であり、自然物はそもそもが自分とは独立の存在である。しかしそれに勝手にされては困るので、なんとか「自分の思うように」したい。そうかといって独立の存在なのだから、本質的には思うようにはならない。「そこをなんとか」するには、どうすればいいか。
まず相手がそういうもの、独立であることを認める。次にそれを自分の思う方向に向けようと努力する。ただしそれが「勝手読み」では意味がない。勝手読みとは、碁や将棋で相手の打つ手を自分の都合のいいほうに予測することである。相手は独立なんだから、それはムリというものである。じゃあどうするかというなら、相手の反応をまずよく見るしかない。そのためには、毎度のお付き合いが必要である。ちょっとこうしてみて、うまくいきそうなら、それをさらに伸ばしていく。具合が悪いなら、別なほうに押してみる。そうした小さな試行錯誤を繰り返しながら、できるだけ思う方向に誘導する。


このように、相手のことをしっかりと観察したうえで、相手をコントロールしようとするのでもなく、独立したものと捉えて放置するわけでもなく、ソレがより良い方向へと展開していくように、試行錯誤しながら一緒に伸ばしていく、それが手入れの思想です。

里山文化などは、手入れの思想の最たる例です。

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一方でたとえば、ビジネス文脈で語られるような二項対立、一般的なマーケットインとかプロダクトアウトとかは、相手を全く見ないか、相手を見すぎるかのどちらかになりがち。

言い換えると、相手のニーズだけに見合ったものを提供するか、それとも相手を完全に独立したものとみなし、自分の欲しいものだけを提供するか、このような2極化した話ばかりが語られることがしばしばですよね。

でも、そのどちらでもない、第三の道が本来は存在したんだということを僕らに教えてくれるのが、この「手入れの思想」だというふうに僕は解釈しています。

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そして今、多くのひとに足りない観点が、まさにここにあると感じている。

で、養老さんは、この手入れを続けていると、必然的に対象から「目が離せなくなる」と語ります。

ここからが非常に重要な話であり、今日の本題にも入ってきます。

再び本書から続きを引用してみたいと思います。

それをしようと思うなら、結局は「目が離せない」。いつも片目では、見ていなきゃならないのである。田んぼの稲だろうが、子どもだろうが、同じことである。雑草が生えてきたら、草むしりがいる。イナゴが増えたら、子どもに採らせる。こうした手入れの思想が、日本人の生き方の根幹だった。私はそう思う。
それをするから、いつの間にか、努力・辛抱・根性が身につく。これを教えることはできない。教わるほうが嫌がるに決まっている。そうではなくて、こうした性質は手入れを続けることによって、手入れを続ける側に、ひとりでに備わってくる性質である。手入れを続けることが、なんと自分自身に対する手入れになる。


この「目が離せないから、努力・辛抱・根性が身につく」という話は、本当にそのとおりだなあと思います。

たとえば、僕が日々手入れをしている対象のひとつが、このWasei Salonだと思います。もう6年以上、この生態系のようなコミュニティ空間を、自ら毎日手入れし続けているわけです。

そして、その結果として、本当に自分に努力・辛抱・根性が身についてきているなと思います。もちろんそれは決してネガティブなことではなく、これが本当に自分にとって必要なものだったという実感値として、です。

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で、こればっかりは、他人から教わることはできないなあと、自らの体験を通して本当に強く思います。自分で淡々と日々何かに対して、真剣に「手入れ」をし続けていくほかない。

で、さらにここで養老さんの慧眼だなと思ったのは、そうやって継続していると「手入れを続けることが、なんと自分自身に対する手入れをすることになる」という部分なんですよね。

ここが今日、一番強く強調したいポイントです。

今回、この部分を読んで、僕は腰を抜かしそうになりました。

過去に何度も「手入れの思想」には触れてきたのに、これまでは何も見えていなかったんだろうなあと。

最近書いた、ルーティンは目的達成のためではなく闇落ちしないためという話、あれもまさに「手入れ」をし続けるということ、そのものなんだろうなあと思いました。

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こうやって、何でもいいから自然のようなものを手入れを続けることで、自分自身に対する手入れにつながっている。

言い換えれると、自然物のような対象とインタラクティブなコミュニケーションを行っているうちに、相手(対象)も、そして自分自身も変わってしまう。

まさに「踊るんだよ」ってことでもあるなと思います。

そう考えてくると、村上春樹さんの「洞窟のなかで相手の顔を見る」という話もまさにこの手入れの思想そのものだよなあと。小説家としてのマーケットインでもプロダクトアウトでもない、まさに40年以上にわたって「手入れ」をし続けている感じ。

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何か明確に「正しい」ものがわかるわけではない。でも「正しくない」ものは集まる人の顔を見ていればわかる、というあの話にも見事につながっていきます。

だからものすごく遠回りに思えるかもしれないけれど、「正しくない」ものを遠ざけながら、否定神学的に「正しい」ものを探っていくほかないというのはもう間違いないのでしょうね。

もちろん、あまりにも気が遠くなる作業に思えて、途方にくれてしまいそうにもなりますが、着実に歩みを前に進めていくことはできる。

そのやり取りの中で、相手の独立性を認めつつ、お互いに変化を生み出していくことが大切であって、まさにそんな「手入れ」自体が生み出す「動的な状態」が大事なんだろうなあと。

「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。」という話にも直結するような話だと思います。

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ただ、人がこの手入れの思想を怠るようになると、どうしても支配的になる、ハック的になる。今の東京都知事選なんかを見ていても本当にソレはとても強く伝わってきますよね。

じゃあ、なぜ、昔は大事にされていた手入れがなくなって、近年はドンドンと、ハックの方向に流れていってしまったのか。

それはきっと社会構造も関係あったのだと思います。

設計図が最初から定まっているエンジニアリング的な視点、帰ってきて欲しい答えが明確に決まっているプログラミング的な思考が主流となり、自然からは離れて、手入れからドンドン遠ざかっていたことが一番の原因だと思うんですよね。

つまり、自然物から工業製品化、さらにはその工業製品をいかにして、商品やサービスとして付加価値をつけて届けていくかがここ数十年のビジネスの主眼として置かれてしまっていたこと。

結果として、マーケティングのような話がメインで語られて、エンドユーザーの一人ひとりに顔があることを忘れられてしまっていった。

数字を増やすことだけに躍起になってきた結果が、まさに今なのだと思います。そうなると、そこから一番縁遠いものが「手入れの思想」になっていくのも当然のことだと思います。

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でも、現代において、特にAIの登場によって起きているおもしろい変化だなあと思う点は、ユーザーの入力に対して、まったく違うアウトプットを返してくる、しかもその仕組自体が完全にブラックボックス化していること。

だから、入力をひたすら繰り返して改善し、ある種の手入れをしていくほかない。AIが自然、まさにデジタルネイチャーみたいになってきていることですよね。

そうすると、やっぱりまた「手入れ」の感覚みたいなものは戻っていくと思う。

もちろん、コミュニティが世の中を動かす大きな原動力になっていけば、より一層、またひとりひとりのメンバーの顔を見ることの重要性も、認知されていくようになっていくはずです。

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養老さんは本書の中で「田畑をいじろうが、女性が自分の顔をいじろうが、子どもの教育をしようが、家の掃除をしようが、かつてはすべてが手入れの一言だった。それを思想というので、「なんとか全集」に書かれているのが思想なのではない。思想とは、それで生活のすべてが基本的に律せられるものである。頭の中にあるものではない。」と語られていましたが、これは本当にそう思います。

「手入れ」を自ら繰り返している中でしか、本当に私にとって必要な思想は立ちあらわれてきてはくれない。

だからこそお互いを独立した自然とみなしながらも、敬意を持ちあったインタラクティブ性を重視したやり取りをしていくことが、大事になっていくはずです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が参考になっていたら幸いです。