最近、とある有名な投資家さんの本を読んでいたら「日本人は英語教育にもっと力をいれるべき」というよくある話の流れから、日本の国語教育批判が展開されていました。
そこまではよく見るありがちな批判なのだけれども、その中で語られていてびっくりしたのが「最悪なのが小林秀雄とかいう評論家の文章でした。何が言いたいのかまったく不明。」と語られていて、なんだかこれがとてもおもしろい話だなと思いました。
まず、言いたいことは、わからないくもない。僕も小林秀雄の文章はいつも難解だなあと思ってしまいます。
とはいえ、自分が小林秀雄が何を書いているのかまったくわからないからという理由で、そのまま国語教育の批判につなげてしまうロジックは、なんだかとてもビックリしてしまう。
でも、こういう驚きを得られること自体に、ものすごく価値あることだと思うんですよね。
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似たような話として、最近オーディオブックで聞いていた武田砂鉄さんの『わかりやすさの罪』という本の中に、映画『万引き家族』のとあるシーンで、調布の映画館の中では笑いがおきたという話が語られてあって、それも非常に強く印象に残っています。
以下で少しだけ本書から引用してみたいと思います。
『万引き家族』について、ある1シーンだけの話をする。頻繁に駄菓子屋で万引きに励んでいた男の子が、一緒に住むことになった女の子を連れて駄菓子屋に出向く。男の子は、駄菓子屋の主人と女の子の間に体を入れて、死角を作る。「今だ」と合図して、女の子に万引きをさせる男の子。スーパーボールを盗んだ女の子がお店を出て行こうとすると、駄菓子屋の主人が男の子を呼び止め、ゼリー棒を2本手渡し、「妹にはさせんなよ」と一言添えた。万引きは、前々からバレていたのである。
平日の午前中、観客の多くが中高年というシネコン「シアタス調布」で観ていたら、このシーンで場内がクスクス笑いに包まれた。その笑いの発生にすっかりたじろぐ。
武田さんいわく、これまでの万引きが駄菓子屋の主人にはすでにバレていたことに対する笑いのようだったらしいのですが、きっとこのシーンが伝えたかったのは、柄本明さんが演じていた駄菓子屋の主人が、二人を怒鳴りつけなかった優しさや、その優しさと同時に、厳しくも見つめているある種の神の視点のようなまなざし。
それをゼリー棒を渡しながら、男の子に静かに伝えることで、彼よりもっと幼い女の子に負荷をかけないようにする配慮、そんな複雑な感情がここでは描かれていたはず。
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この2つの話は、別々の文脈で触れた話ではありつつ、とても強くつながる部分があるなあと思います。
もちろん、小林秀雄が意味不明という投資家のことも、万引き家族のこのシーンを笑った人たちのことも、それが間違っていると言いたいわけではありません。
純粋に「なるほど、そうやって考えるひとがいるんだなあ」と理解できることが、とてもいいなと思うのです。
これがまさに、「縦の旅」と「横の旅」でいうところの「縦の旅」なんだろうなあと思うから。
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だからどちらかといえば、旅先で出会ってしまった風景と似ていて、郷に入っては郷に従え、ではないですが、むしろこれが見たくて本を読んだり、旅をしたりしているところがあるなと思ったんですよね。
だからちょっとしたワクワク感のようなものもあるわけです。
他にもたとえば、2010年代、僕がまだ20代のころにローカルに取材に行くと、わかりやすくホリエモンとか藤田晋さんとか、IT起業家を批判している人たちと出会うこともよくありました。
自分もネットメディアで会社を起業していたから、どちらかといえばそちら側の人間であるわけだから、間接的に自分が批判されているのかなと、肩身が狭いなと思うシーンもたびたびありましたが、一方で楽しんでいる自分もいる。
僕はそういうときは、過度に共感も同調もしない、もちろん否定や批判もしない。
ただただ、そのような現場を見られることに価値があるなと思うんです。
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とはいえ「SNSを見れば、そんなひとたくさんいるじゃないか!」と思う人も多いかと思います。
でも、それは少し違っていて、どういう環境のもと、どのような価値基準に沿って生きてきた人たちが、そのように語っているのか。
その風土や環境、文化も同時に見ないと、まったく意味がないなとも思うんですよね。
変な喩えかもしれないけれど、京大総長だった山極寿一さんの表現を借りると「ゴリラ」を動物園で観察しちゃいけない、ゴリラはゴリラが暮らしているところで見ないと意味がないんです。
TwitterやYouTubeという動物園やその檻を通して、相手の生態を理解できたと思うことは本当に馬鹿げているなと思ってしまいます。
もちろん、相手がゴリラだと言いたいわけではなくて、文化人類学の参与観察ではないけれど、自分の環境から眺めるから、すぐに批判的になってしまうんだろうなあと思うのです。
もしくは「パンがなければ、ケーキをたべればいいじゃない」のような天真爛漫な話になってしまう。
僕らはあの言葉を、箱入り娘の世間知らずな戯言とみなしているけれど、でもSNSで多くの人がやっていることは、それなんだよなあと思います。今現在、社会のいたるところで起きていること。
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そうじゃなくて、何がそう感じさせているのか、どのような解釈のもと、そのような発想に至ったのか、その風土から触れてみること。
ハイデガー風に言えば「世界内存在」みたいな話であって、その世界を見に行かないとわからないことなんていっぱいあるよね、と。
人間は単に、世界の中に物理的に存在するだけでなくて、常に世界と相互作用し、そこに意味を見出しながら生きているはずなんです。
つまり人間は、世界から切り離されたひとりの観察者ではなく、世界の一部としてしか存在できなくて、その中で行動し、それぞれの理解を形成しているはずなんですよね。
だからこそ、その理解を形成している土台にあるはずの「風土」も一緒に見に行かないと、その存在だけを見て批判してみたところで、まったく意味がないというか、いつも的はずれな見解になってしまうということなんでしょうね。
だから僕は、客観的に正しい正義、それが一体何か、その正解が知りたいというよりも、どういう世界が果たして、彼や彼女にそう思わせているのかを純粋に知りたい。
「〜ねばならない」とかリベラル的な話とかよりも、単純にそれが知りたいなと僕は常々思っています。
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もちろん、自分には自分の明確な考えがあるけれど、それを押し付けたいとも思わないし、自分がその他者の考え方を聞いてすぐに、自分の考えを変えなければいけないとも一切思わない。
あくまでこれも僕のような人間が育った風土が形成した、ひとつの基準や偏見に過ぎないわけですから。
相手から見たときにはまず間違いなく、僕が檻の中のゴリラに見えているはずなんです。そしてそれは全く持って正しい見方だと思います。
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このような驚きをたくさん通過すること、それ自体が旅や読書の楽しさだと思っている。
この発見自体が純粋に楽しい。
で、やっぱり、自分自身の中でこのような価値観に変化した一番大きかった影響は、中国で働いたり、若い頃に海外を旅した中で得られた経験は大きかったなあと思います。
全然違う風土で、ぜんぜん違う価値観を感じてみて、でもそれがあまりにも日本人の自分とかけ離れすぎているから、逆にそこに共通点を見いだせる。
違いの中で見つかる共通点のほうが、とても嬉しいことにつながっていく。
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逆に言うと、日本人同士は似ているからこそ、批判し合っているんだとも思うんですよね。
こちらも最近読んでいた釈徹宗さんと内田樹さんの対談本『宗教のクセ』という本のなかで、釈徹宗さんが語っていたことで、とても膝を打った話があります。
本書から少しだけ引用してみたいと思います。
宗教の習合・対立について、自分の経験上思うんですが、近いものほど違いを強調したがる、離れたものほど同じところを強調したがる、というところがあるような気がするんです。たとえば、東本願寺と西本願寺って、お互いに違うところを強調しがちです。大きい目で見たらおんなじやのに、やけに違いを強調したがる。その一方で、浄土真宗とキリスト教の同じところを挙げたがる人って多いんですね。 これっておかしな習性だなあって前から思っていたんですが、人間ってそういうところがあるのかもしれないですね。
東本願寺と西本願寺のいがみ合いみたいなものは、以前NHKでも放送されていましたが、仏教関係者や京都に住んでいる人間じゃない限り、両者は本当に同類項で括られてしまう存在であるはずです。
でも、お互いは全く別物だと自認し合っている。似ているからこそ、それぞれの違うところを繰り返し指摘しあい、いがみ合う。
よくよく考えると、変な話ですよね。
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ゆえに僕は、なるべく縦の旅を頻繁に繰り返したいなあと思います。
きっと、全然違うものと比較してみちゃったほうがいい。違いすぎて、同じところを見つけようとする力が、そこに勝手に働くはずですから。そこに「普遍」のようなものが存在するんだろうなあとも思えるはずです。
「相手の暮らしている土地で暮らしてみましょう!」とまでは言わないしそれは現実的ではないけれど、全然違うジャンルの本を読みながら、せめて1冊分ぐらいはまるまる相手の思考過程にしっかりと触れたあとに「小林秀雄とかいう批評家の言っていることは、まったくもって理解できない」という話をしみじみと聞いてみること。
本当にいま大事なことだなあと思います。こういう純粋に驚く体験をもっともっとしていきたいなあと思う今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。