昨日こんなツイートをしてみました。

僕たちは「web3」という新たな概念を用いて「豊かな議論」をして、お互いの知見を深めることができるはず。

にもかかわらず、内田樹さんが連続ツイートの中で書いているように、「まず定義しろよ」と言ってくる人間というのは、それを知らないなら愚者なのだと思います。

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世の中には、「理想」と「現実」の乖離が絶対に許せないというひとたちが、必ず一定数存在しています。

「web3は絵空事だ」っていうweb3悲観論者や、「そんなのはweb3じゃない」っていうweb3原理主義者に対しては、「一体、それの何が悪いのか?」と言い返していいのだと思います。

いまの僕らに本当に必要なことは、定義に沿った世界を忠実に再現することではなく、「豊かな議論」の部分のほうにあるはずだからです。

何か新しい概念が生まれてきて、未来に向かってポンって投げだされた可能性に対しては、広く建設的に議論していくためのその環境をつくりだしていくことが一番重要なこと。

それは、同じく内田樹さんが書かれた「憲法空語論」の「憲法」の部分を、そのまま「web3」に置き換えて読んでみてもらえれば、きっとその意味をより深く理解してもらえるはずだと思います。ぜひ合わせて読んでみてもらえると嬉しいです。

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思うに、原理主義や定義を明確に定めたがる人は、自分がポジショントークをしていることに気づけないんだと思うんですよね。

その業界に長く所属していることや、海外文脈に精通していることなど、それだけで自分は正しいと信じ込んでしまう盲点って、確実に存在しています。

自分は、こんなにも原理や定義に忠実なのだから、圧倒的に正義の側にいる!と思っちゃう。

定義に当てはめた場合の正解・不正解で言えば、自分のほうが間違いなく正解なのですから。不正解である人間は全員、撲滅しなければならないって思っちゃうのも当然です。

過去には、マルクス主義なんかも全く同様の論理で過激化していきました。

「人々が幸福に暮らす」という目的のために生み出された政治手段だったはずが、それを忠実に再現するために対立し、わかりやすいヒエラルキー構造をつくりだし、どちらがより「純粋」であるかでお互いを罵り合って、手段が目的化してしまうという現象。

だからこそ、僕らが見直すべきは「定義を合わせてから議論を始めよう」ではなく、「定義とは人それぞれに大きく異なっている前提認識のもとで、お互いに敬意と配慮を持ちながら議論を行おう」ということなのだと思う。

そう、本当に大切なことは、相手への敬意なのです。

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定義は仮固定的に置いておきつつ、ちょっとずつズラしながらお互いに実践し、発見した知見を各自で持ち寄って豊かな議論によって得られた可能性に対して、様々な角度から挑戦し続けてみる。

そうすることで、ほんとうの意味で世界は螺旋階段上に発展していくはずです。

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ひとり一つの「宇宙」が存在していて、文字通り「メタバース」として同時並行的にそれぞれの宇宙が成立し得る社会が、これから本当の意味でいよいよやってくる

お互いに脅かさない、侵略しあわなくて済むようなる世界が目前に迫っているのですから。

そんなときこそ、どうすればお互いの宇宙を尊重しあって、共存共栄していくということのほうがより一層重要な考え方になってくると思います。

対立するのではなく、お互いにとっての有益な「交差点」を丁寧に探っていきたい。

今日のブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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