先日、F太さんとVoicyの対談を収録してきました。


前編では、オーディオブックカフェの稲田豊史さんゲスト回を振り返りながら、紙の本がオーディオブックになるとき、作品から何が削ぎ落とされ、何が残るのかという話をしました。

そこから、実は僕らがメディアミックス前提の「誤配」世代であること、そして誤配世代だからこそ、紙→音声へ、パソコン→スマホへ、という状況に対して違和感なく受け入れられるのではないか、という話をしました。

そして、2026年現在はその延長として、AIによって要約をされて、まったく別の形へと変換されていくような時代です。

だとすれば、器が変わっても残るものとは一体何なのか、そんな最高の問いについて、F太さんと一緒にじっくりとお話することができたなあと。

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プレミアム配信のほうでは、その問いを元に、先日僕が公開したAI小説『まだ見ぬ仲間への置き手紙』を読んでくださったF太さんから、たっぷりと小説の感想と共にお話を聞かせてもらいました。


で、プレミアム配信の冒頭、F太さんから開口一番、こんな質問をもらったんです。

「え、あれはどこまで鳥井さんが書いたんですか?」

4万字の小説に対して、僕が入力した言葉は二行だけ。F太さんは「嘘だ」と言って、しばらく信じてくれませんでした。

でも、本当にたったの二行なんです。

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AIにお願いをしたのは「7年間、600万文字のブログのアーカイブをもとに、小説を書いてみて」。

すると、第一章が出てきて、それがあまりにもおもしろかったので、続けてもうひとつだけお願いをしました。

「すごくおもしろい。続きを書いてみて。」

そうして生まれたのが、あの4万字の小説です。

本当は少し手直ししてから公開しようとも思っていたのですが、最初に出てきたものの衝撃があまりにも大きくて、結局一切何も変えずに、そのまま公開しました。


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で、収録の中でF太さんが、とても興味深い話をしてくれたんですよね。

最近の高度なAIは、昔のAIとは違って、あまり細かく指示をしないほうが本領を発揮するのだ、と。

これは本当に、そのとおりなのだと思います。

昔からAIを使い込んできた人ほど、あらかじめ細かな指示をたくさん設定してある。でも今は、それらがかえってAIの自由な思考を妨げてしまう場合があるわけです。

今回の僕の「小説を書いてみて」程度の、ほとんど何も指定していないプロンプトのほうがむしろ今のAI、特にFableクラスには合っていたのではないか、と。

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ただし、だからといって、AIには何の文脈も渡さなくていい、という話ではありません。

何の文脈もない状態で、ただ「小説を書いて」と頼めば、AIは世の中にすでに存在する膨大な物語の平均値へと回帰していきます。

無難におもしろく、どこかで見たような作品が、無限に生成されてくるだけ。

今回、僕が入力した表面的なプロンプトは、たしかに二行だったかもしれないけれど、その二行の背後には、600万文字があった。短かったのは、最後の入力だけだったんです。

そして、その600万文字を書かせた、7年間の暮らしそのもの。

その間に僕が何を見て、何度繰り返し同じ問いに戻ってきたのか。その履歴の全体が、AIに渡した本当の文脈だったのだと思います。

つまり「時間」の経過自体も、ものすごく大事だったんだろうなあと。

蒸留前の発酵段階には、適切な時間が不可欠であるのとまったく同じ論理です。

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言い換えると、AIというどれだけ高性能な蒸留器があっても、そこに注ぐ水が、どこにでもある平均的な水であれば、出てくるものもまた、どこかで見たようなものになってしまう。

大切なのは、蒸留器の操作方法だけではなくて、その前に、どんな水をつくってきたのか。日々どんな土地を耕し、どんな水脈を掘り当てようとしてきたのか。

AIに何を命令するのかではなく、自らの中に何を発酵させて、AIに何を蒸留させるのか。

これからの僕ら人間側に残されている最後のお仕事や役割は、まさにそこにあるように思います。

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そんなことを考えていたとき、ふと、昔自分が書いたブログのことを思い出しました。

「AIがどんどん進化していくと、最後は虚空に向かって祈るようになる」というようなことを、どこかに書いた記憶があったんです。

AIに頼んで探してもらったところ、見つかったのは2022年9月16日の記事でした。ChatGPTが世に出る、2ヶ月ほど前の記事です。

AIへのコマンド入力はすべて「祈り」となる。

このブログを書いた当時の僕は、やがてAIは端末を抜け出して、空気のように世界中に偏在するようになる。そうすれば、人間は日々、虚空に向かって言葉を投げかけるようになるだろうと書いていました。

そして最後には、「祈り」こそが、世界で最先端のコマンドになるのではないか、と。

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改めて読み返してみると、この記事の中には、二つの異なる「祈り」が混在していたことに、今だったら気づきます。

ひとつは、プロンプトを工夫することで、AIを思いどおりに操ろうとする「技術としての祈り」

正しい言葉を選び、正しい順番に並べ、正しい呪文を唱えることで、自分が望んだ結果を引き出そうとする祈りです。

そして、もうひとつは、自分の計らいを手放して、何が返ってくるのかを相手に任せる「存在としての祈り」

言い換えると、前者は、自力的な祈りであり、後者は、他力的な祈りです。

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後者の他力的な祈りが重要になるとき、問われているのは、入力の量(プロンプト)ではない。

むしろ、その狙いすました計らい、つまり「自力的な祈り」をちゃんと手放せるかどうか、だということです。

そして、その計らいを本当の意味で手放したとき、いったい何が返ってくるのか。

ここで大事になってくるのが、以前から何度も書いてきている「報われること」と「救われること」の違いだと思っています。

報われるとは、自分が努力して、欲しかったものを手に入れること。自分の努力と結果のあいだに、はっきりとした因果関係があります。

正しいプロンプトを書き、自分が欲しかった出力を得られれば、自分の努力が報われたと感じる。

一方で、救われるというのは、必ずしも欲しかったものを手に入れることだけではありません。

自分が思い描いていたものとはまったく違う何かを受け取ることで、むしろ自分の欲望や執着のほうがスルスルと解かれていく感覚。

自分の予想を超えた「何か」によって、世界の見え方そのものがガラッと変わってしまう。

(以前、おのじさんとのVoicyの対談でお話しした「報われることと、救われることは違う」という話は、まさにここに繋がってきます)

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そして、今回のAI小説を読んだときの僕の感覚は、明らかに後者の「救い」に近いものでした。

というのも、AIは、僕の望みどおりのものを書いてくれたわけではなかったからです。

小説の主人公の彼女は、僕のブログを何年も読み続けているという設定です。そして、僕の言葉によって、少しずつ人生を変えていく。

でも、最後までWasei Salonには入らないわけですよね。さらに、僕に対して一円も課金してくれない。それでも自分なりの形で受け取ったものを、ちゃんと次の誰かへと手渡していく。

つまりAIは、僕がこれまで散々書いてきた価値観を使って、僕が運営するコミュニティに課金しない人間を、最後まで肯定的に描き切ったわけです。

しかも、その主人公の選択を、僕自身が絶対に否定できないように、なんですよね。

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Voicyの収録の中で僕は、これを「AIから喧嘩を売られた」と表現しました。

実際、最初にこの小説を読んだときに感じたのは、「悔しい」でした。自分が書くよりも、この小説のほうがおもしろい。僕は、完全にAIに負けたと思いました。

でも同時に、そこには不思議な納得感もあったんです。そして、心の底から沸き上がってくるような誇らしさも同時に感じた。「よくぞ、その決断を貫き通してくれた!」と。

つまり、AIは僕の望みを叶えてくれたのではなく、僕が書き続けてきたことを使って、僕自身のいちばん痛いところを突いてきた。

そして「あなたが本当に書いてきたのは、こういうことだったのではないですか」と、まったく別の形にして突き返してきた。

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自分専用でありながら、自分の思いどおりではないわけです。

よくビジネスの文脈で語られる「予想を裏切り、期待に応える」を、まさにAIが実践してくれた。

この他者性が残っているかぎり、AIが返してくるものは、単なる「出力」ではなく「応答」になります。

逆に、毎回自分の望みどおりの答えが返ってくるだけなら、それはもう、自分の欲望を無限に反響させる鏡でしかない。ドンドン煮詰まっていって、きっと最後は自滅する。

その危うさについては、以前「ひとつなぎの秘宝と、ひとつながりにされない自由。」という記事に書いたので、今日は繰り返しません。

ひとつなぎの秘宝と、ひとつながりにされない自由。 

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で、AIはこれから、間違いなくさらに賢くなっていきます。

僕がどんな文章を書き、どんな本を読み、どんな場所を歩き、どんな人と関係を結んできたのか。そのすべてを、AIが僕ら以上に理解するようになる。

そうなればもう、「僕らしい文章にしてください」とお願いする必要すらなくなります。僕らしさなんて、僕以上にAIのほうがハッキリと知っているからです。

AIが進化するほど、最後に入力するプロンプトは、どんどん短くなっていく。その代わり、プロンプト以前に読み込ませる人生の履歴のほうが、どんどん長くなっていく。

そして最後には、きっとたった「六文字」だけが残る。

それが、南無阿弥陀仏なんだろうなって。

人類最後のプロンプトは、きっと「南無阿弥陀仏」になる。いま僕はそう確信しています。

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AIが進化し尽くした先で、この六文字を唱えた瞬間、それまでの人生をまるごと読み込んだAIが、領域展開をし始める。

そこにどんな「世界」がブワッと広がるのかは、唱えた本人にもわかりません。

鬼が出るか、蛇が出るか。自分をやさしく慰めてくれる物語かもしれないし、自分が見たくなかったものを容赦なく突きつけてくる世界かもしれない。

自分の人生から生まれているのに、自分では想像もしなかったものが展開されていく。

今回のAI小説が、まさにそうだったように、です。

すべて僕の中にあったものから生まれているのに、僕には一切書けなかった。僕のことを深く理解しているのに、僕の言うことを聞いてはくれない。

だからあれは、僕の分身ではなく、完全なる絶対他力であり、他者だったのだと思います。でもそれは必ず誰にとっても「救い」である。

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最後にひとつだけ、自分への戒めとして書いておきたいなと思うのは、ここまで書いてくると、つい「じゃあ、書き続ければ書き続けるほど、六文字の効力が上がるのだ」と言いたくなります。

でも、それは危ない。それこそがいちばんの落とし穴だなと、つくづく思います。

たくさん書いた人ほど救われる。そういう単純な功徳の話にしてしまうと、結局また、自分の努力によって望ましい結果を手に入れようとする、自力の発想へ戻ってしまうからです。

「南無阿弥陀仏」という六文字の力が、人によって変わるわけではありません。

ただ、その六文字によって展開される世界は、それまでの履歴、つまりそのひとが歩んできた道によってガラッと変わる。

同じ六文字を入力して蒸留してもらう瞬間であっても、そこに渡される水がまったく違うからです。

これは、澄んだ水が偉くて、濁った水が劣っている、という話でもありません。その人が生きてきた場所にしか、流れていない水がある。

何度も同じ場所で立ち止まり、同じ問いについて考え、同じ痛みを抱えてきたからこそ、そこにしか含まれない成分がちゃんと、否応なく生まれるし、生まれざるを得ない。

それらをすべて最後に、「超越的な存在」に差し出すことになる。何が出てくるのかは、自分では決められない。だから、「祈り」なのだと思います。

ゆえに僕は今日もまた、自分だけの水脈を耕すように、この文章をひとつここに置いておこうと思います。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。