今年に入ってから、web3に対しての学びや発見について、このブログやVoicy内で積極的に発信してきました。
そのため、本当に多くのひとたちから、web3に対しての質問や疑問をぶつけられた一年でもあったように思います。
僕自身も、今まさに学んでいる最中なので、何か偉そうなことを語れる立場ではまったくないのですが、それを踏まえたうえで、みなさんの疑問や不安のようなものを大別すると大きく分けて2つあるなあと、いま感じています。
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まず、一つ目は「どうせ新たな金儲けの手段として、濡れ手に粟のような状態を味わいたい人たちが集まっている危うい情報商材やオンラインサロンのようなものでしょう?」というもの。
そして、もう一つは、あまりにもテクノロジーが発展しすぎてしまうことによって「世界との摩擦がなくなってしまうことに対しての危惧感」です。
今日はこの二つの疑問に対して、自分なりの考えと、そこから生まれてくる新たな問いについて、少しこのブログにも書いてみたいと思います。
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この点、これらの問いに対して、明確な答えとそれを考えるための視座を与えてくれるのが、先日発売されたばかりの佐々木俊尚さんの新刊『Web3とメタバースは人間を自由にするか』です。
この書籍は、本当にとっても素晴らしい書籍でした。
僕が今年に入ってから漠然と感じていたこと、そして「きっとこれからこんな未来がやってくるだろうなあ」と思っていたことを大変見事に言語化してくださっています。
このブログを読んでくださっているみなさんには、ぜひとも一度手にとってみて欲しい一冊です。
そして、一つ目の問い「どうせ怪しい金儲けの手段でしょう?」という問いに対しては、佐々木俊尚さんが明確にその答えを出してくれています。
以下は、佐々木さんの本から引用となります。
僕もまさにこのスタンスです。
現状は詐欺師のような「山師」が跋扈するような世界ではありますが、それもある種の通過儀礼のようなものだと思います。
そこに、web3やNFTの本質は存在しなくて、GAFAMのようなWeb2の「支配と隷従」の世界観から、web3やメタバースによる「関係と承認」の世界観に移り変わっていくことが、その本質です。
この「関係と承認」というのは、僕がずっとその到来を待ち望んでいる世界観でもありますし、過去に何度も何度も繰り返し、このブログやVoicyの中でも語ってきている内容でもあります。
そして、そのときに肝になるのが、「トークンエコノミー」という考え方です。
「誰もがトークン発行者であり、そしてトークン保持者であるという『入れ替え可能』な構造を設計することで、誰もが参加でき、誰もが承認される実感を得られる新しいインターネットの可能性がひらけてくる」と、佐々木さんは本書の中で書かれていましたが、まさにそのような世界がこれから到来するのでしょう。
これはもう時間の問題です。そう遠くない未来に、十中八九必ずやってくる未来だと思います。
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それよりも、二つ目の問いのほうが、圧倒的にむずかしい問題です。
具体的には、急激なテクノロジーの発展によって「世界との摩擦」がなくなることに対しての「危惧感」のほう。
こちらのほうは、正直僕もまだわかりません。
確かに、自分の中にもそのような恐れはあるから、直感的にもその危惧感に対しては非常に共感できてしまいます。
この点、佐々木俊尚さんは、同書の中で以下のように語ってくれています。
テクノロジーの進化によってグーグルやアマゾンのようなビッグテックは、わたしたちの暮らしを完璧にコントロールし、最適化しようとしている。これは美しい「没入」の世界である。
しかし、わたしたちは「没入」だけで満足できるわけではない。「没入」だけでなく、外界や他者との心地良い「摩擦」が必要なのだ。
これは「意識(脳)VS 無意識・身体性・身体感覚」との関係性にも近いと思います。
後者を無視したときの人間の暴走によって生まれてしまった歴史のなかの大惨事というのは、個人単位から世界単位まで、本当に枚挙にいとまがありません。
だからこそ、この暴走に対して警鐘を鳴らしたくなる気持ちは痛いほどよくわかります。
そしてまさに、マルクスの「労働の疎外」ならぬ「摩擦からの疎外」みたいな現象が今だなあとも思います。
とはいえ、一度振り切るところまで振り切るのだろうというのが、僕の見立てです。
それは以前、『世界2.0』をご紹介したときの「オーディオブックカフェ」の中でも語ったとおり。
そのうえで、きっと何かしらの痛手を人類全体で負いつつも、十数年後にその反動のようなものがやってくるのでしょう。
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むしろ、そこからが人類にとって本当のweb3との向き合い方のスタートになるはずです。
だからこそ、最近僕が強く感じているのは、自分にとって本当に必要な「世界との摩擦」とは何か、を今から淡々と考えておくことなのかなと。
つまり、思考の矢印を完全に反転させて、「没入の向かう先」を考えるのではなく、本当に僕らに必要な「世界との摩擦とは何か」のほうから考えたほうがいい。
「なめらかな没入と世界との摩擦、その理想的な関係性とは何か」を徹底的に考えてみることです。
このお話は、自分にとって本当に必要な「余暇」とは何か、から自分にとって本当に必要な「仕事」を考えたほうがいいという話に非常によく似ているかと思います。
参照:「新しい休み方」から考える「新しい働き方」。
仕事だけを突き詰めていくと、どうしてもその資本の増幅と共にドンドンと「過剰」になっていく。
どこまでも、その地位や名声・富のために仕事に没頭することができてしまうんですよね。
「でも、一体私は何のために仕事をしているのか?本当に欲しかった『余暇』とは何だったのか?」を考えないと、1億円を10億円に、10億円を100億円にするための労力と引き換えに、人生において本当に大事なものを見落としてしまう。それと全く同じ論理です。
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ゆえに、僕らがいま本当に問われているのは、これから圧倒的になめらかで「没入」できる世界がやってくるなかで、この私にとって本当に必要な「世界との摩擦」は何なのかと、徹底的に考えることなのではないでしょうか。
過去何十万年とある人類史の中で、決して本気で問われることがなかったそんな問いを、僕らは自らの頭でひとりひとりが考えなければいけないフェーズにやってきている。
そしてきっと、その答えは各人によって全く異なるはずです。
この問いは、映画『かぐや姫の物語』のなかで高畑勲さんが描きたかったことにも、非常によく似ているなあと感じています。
かぐや姫は「月」からやってきたという設定でしたが、実は月というのは「未来のメタバース空間」だったと考えると、非常にしっくり来る。
そして、そんな姫が犯した「罪と罰」とは一体何だったのか。
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なめらかな没入の世界がやってくるのは、「既に起きた未来」と言えると思います。
だからこそ、古くて新しい「世界との摩擦」において、今この瞬間から淡々と、そして真剣に考えておく必要がある。
そのためにこそ、没入する世界が、一体どんなものかを踏み込んで眺めてみる必要もあるのかなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
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声のブログ、Voicyも毎日更新しています。ぜひ合わせて聴いてみてもらえると嬉しいです。