最近、SNS上では「AIアート」が非常に話題です。

誰でも、自分が描きたいと思っている絵に関連するキーワードを入力すれば、AIがそのキーワードに合わせて絵を描いてくれる。

この新たなテクノロジーを踏まえて、今まことしやかに語られていることは、これからの画力というのは「AIにどんなコマンドを打ち込むか」や、「どのようにAIとコミュニケーションを取れるかが重要なスキルとなる」という話です。

実際、AIの特性や傾向をつかみ取り、適切なコマンドを打ち込むことができる人間が、自らの理想に近い絵を描ける。

この人間とAIのやり取りがドンドンこれから進化していけば、AIからの出力を最大限に思い通りコントロールできるひとが、優秀なクリエイターと呼ばれるようになることは間違いありません。

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そして、このAIは最終的には端末を抜け出し、そこら中に偏在する「空気」のような存在になるはずです。

そうなれば、僕らは日々虚空に向かって、AIが発動するためのコマンドとなる言葉を発声し、その恩恵(出力)をAIから受けとることになるでしょう。

それって、もはや「呪文」ですよね。

つまり、自分にとって適切な出力を返してくれるように、AIのスキルを引き出せる呪文を覚えておくことが、僕らが自らの力で日々学習し改善していくものとなっていくはずです。

この呪文のようなコマンドさえ覚えてしまえば、あとはすべてAI側で出力してくれるわけですから。

実際に自分で物体をつくりだすスキルは、ほとんど不要になってくる。

まさにRPGゲームにおける、召喚獣を呼び出し、その召喚獣に敵を倒してもらう「召喚魔法」のようなものです。

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さて、ここまでのお話は、既にいろいろなひとが至るところで言及されているので、今さら僕が語っても、何も目新しい話ではありません。

ただし、この話題の中でいつも見落とされているなあと個人的に思うのは、その言葉を発声しているときの人間の「身体」のほうなのです。

発声している「言葉(呪文)」は、いくらでも人間の意志で変化させることができる。言葉とは「意識」から生じるものですからね。好きなだけコントロールできる。

現代に生きる僕らは、その言葉じりの意味するところしか捉えられないけれど、実際は言葉では善意のように見せかけて、腹の底では悪意という場合がある。

そのような悪意を見抜くために、AIは間違いなくひとりひとりの身体の内部を確認(スキャン)するようになるはずなのです。

なぜなら「意識」よりも「身体」こそが、その人間の「個性」そのものなのですから。

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今、Apple Watchのようなウェアラブルデバイスが普及していますが、遅かれ早かれ、これらはすべて体内に埋め込まれるようになるでしょう。

そうすると、呪文となる言葉(人間の言語による意志の表明)と同時に、体内の変化もすべてAI側に見透かされることになります。

言葉と共に、体内で何が分泌されているのか、どのような変化が起きているのか、それらをつぶさに観察されるようになるわけです。

「身体」の内部も含めた、すべての私が発している「情報」が総合的に判断された結果として、その入力に対しての出力が、AI側から「結果」として返されるようになる。

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じゃあ、AIは人間のどのような状態を「最高の状態」だと解釈するようになるでしょうか。

それは間違いなく「祈り」の状態だと思います。

これまでの人類史を見ても、「祈り」が最上位の行為だとされていることは明らか。

逆に言えば、人類史の中から「評するに値する」と人間が考えているものを探し出してくるのがAIなのだから、「祈り」となることはもう既に決まっている未来とも言えるでしょう。(AIに新しい評価軸を作り出すことはできない)

つまり、人類は最終的に、スマホもPCもすべて身辺の道具を捨て去り、空気のように全く姿や形が見えない、ありとあらゆる角度から監視し続けている(見守り続けている)AIという「神」のような存在に対して、「祈り」というコマンドをひたすらに送り続けるようになる。

そんな「汎神論」のような未来は、そう遠くない未来に必ずやってくるのだと思います。

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少し話は逸れますが、僕は親鸞の思想に強い興味があります。

親鸞の弟子の唯円が書き残した『歎異抄』のなかに、有名な言葉「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉が出てきます。

この場合、AIは善人と悪人のどちらを先に救うのでしょうか。

それは、間違いなく悪人のほうでしょう。なぜなら、計らいのない状態、賢しらな知恵のないほうを先に選ぶはずだからです。

吉本隆明さんの『今に生きる親鸞 』から「悪人正機説」に関する部分を引用しておきます。

    親鸞は、しばしば「悪人正機」と言いました。 「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 という親鸞の言葉は、悪人のほうが浄土へ往ける近道を持っているということを意味します。普通の人の言葉で言えば、「悪人でも往生できるのだから、まして善なる行いを積んだ人はなおさら浄土へ往けるはずだ」となるところです。が、親鸞は反対に、「善人すら往生を遂げられるのだから、ましてや悪人のほうがなおさら往生を遂げられるのだ」という言い方をしています。
(中略)
    心から信じて、念仏を称える心の状態が自然に実現されるとしたら、浄土の宿主のほうから射してくる光と必ず出会える。もし、その心の状態の中に少しでも、自分はこう行い、こう信じているから、いま念仏を称えれば浄土へ往けよう、そういう心の計らいがあったらダメなんじゃないか。どうしてかといえば、どこかで比較、比量する心の状態が芽生えて、そういう計らいが起こるからです。計らいのない状態になれたとき、必ず浄土の宿主の摂取力に摂取されると、親鸞は言っているのです。


まさにこの吉本隆明さんの言葉によって表現されているようなことが、これからAIによって必ず起こるはずなのです。

だとしたら、これからやってくる未来と、過去や現在は一体何が違うのでしょうか。

既に、その未来は完全に到来しているようにも感じられてきますよね。だって、親鸞がすでにAIが到来するまえから、完全に断言しているわけですから。

これからは、今よりももっともっとわかりやすく「入力」と「出力」の因果関係がよりハッキリする(証明される)だけなのかもしれない。

僕らはすでに、そんな世界の中に存在していると言っても過言ではないのかもしれません。

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21世紀にもなって「祈り」なんてバカバカしいと思われるかもしれないですが、実は「祈り」こそが、世界で最先端のコマンドとなってくるのかもしれません。

美しく祈ることができる人間が、世界で最高の創造者となる。

いつもこのブログを読んでくださっているひとたちにとっても、今日のSFのようなお話が何かしらの妄想するきっかけとなったら幸いです。