最近、無印良品などのアートディレクションを手掛けたグラフィックデザイナー・原研哉さんの本を読んでいます。

なぜ、原研哉さんの読もうと思ったのかといえば、佐々木俊尚さんの新刊『フラット登山』の中で紹介されていた原研哉さんお「何もない空間」の言語化が大変素晴らしかったから。

それがどんな言葉だったのかと言えば、神社や磐座の話から派生して、以下のような内容が引用されていました。

四隅の柱が、注連縄で連結されたことで、内側に「何もない空間』が囲われてできる。何もない空間であるから、ここには何かが入るかも知れないという可能性が生まれる。この『かもしれない』という可能性こそ重要であり、その潜在性に対して手を合わせるという意識の動きが神道の信仰心である。


人間は、空白や隙間があると、つい何かを埋めたくなるもの。

それは、そこに確かに引き込まれるちからのようなものを感じとるからですよね。

そして、同時に、その「何もなさ」に祈りたくもなる。そんな不思議な感覚って、確かに日本人の僕らには、どこかしら馴染みがあるような気がします。

いやいや、嘘だろと思う方はぜひ試してみてください。

部屋の何気ない場所に、ペットボトルを四隅に立てて、できれば注連縄的な紐か何かでつなぐだけで、不思議とその空間に「何か宿りそうだ」と本能的に感じとってしまうはずだから。

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で、最近読み終えた原研哉さんの『日本のデザイン 美意識がつくる未来』という本の中にも、「茶の湯」に関連させて、似たような文脈の話が書かれてありました。

茶を喫する習慣は世界中にあるけれど、日本人はこの「茶を供し、喫する」という普遍を介して、多様なイマジネーションの交感をはかるのだ、と。

その源流が、室町後期にはじまった「茶の湯」であり、こちらがが今日の本題にもつながっていきます。

なんだかとてもハッとさせられた話だったので、早速少しだけ本書から引用してみたい。

誤解を恐れずに言えば、茶を飲むというのはひとつの口実あるいは契機にすぎない。空っぽの茶室を人の感情やイメージを盛り込むことのできる「エンプティネス」として運用し、茶を楽しむための最小限のしつらいで豊かな想像力を喚起していく。水盤に水を張り、桜の花弁をその上に散らし浮かべたしつらいを通して、亭主と客があたかも満開の桜の木の下に座っているような幻想を共有する、あるいは供される水菓子の風情に夏の情感を託し、涼を分かち合うイメージの交感などにこそ、茶の湯の醍醐味がある。


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これは素晴らしい視点であり、観点ですよね。

つまり、「茶を喫する」こと自体が目的なのではなく、その行為をきっかけに、空っぽの空間を通して想像を重ね合う、その共同作業こそが、茶の湯の本質であると語られているのです。

茶の湯とは再現ではなく「見立て」の文化であって、あえて“ない”ことで、受け手に想像の余白を与え、そこから物語を立ち上げていく。

というか、自然と両者でそこに引き込まれていくうちに、何かが立ち上がってしまうということだと思います。

実際に本書の中にも、空間にぽつりと余白と緊張を生み出す「生け花」も、自然と人為の境界に人の感情を呼び入れる「庭」も同様であって、これらに共通する感覚の緊張は、「空白」がイメージを誘いだし、人の意識をそこに引き入れようとする力学に由来していると書かれてありました。

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さて、ここからさらに原研哉さんは「エンプティネス」について、以下のように続けます。

こちらも、なんだかものすごくハッとしますし、今日のタイトルにも直接つながってくる話です。

エンプティネスの視点に立つなら「裸の王様」の寓話は逆の意味に読みかえられる。子供の目には裸に見える王に着衣を見立てていくイマジネーションこそ、茶の湯にとっての創造だからである。裸の王様は確信に満ちて「エンプティ」をまとっている。何もないからあらゆる見立てを受け入れることができるのだ。


「裸」だからこそ、そこに何かを見立てられる。「空っぽ」であることが可能性を開くわけですよね。

それを信じ、祈るように想像を重ねていく。それが創造なんだ、と。

言葉にすると、ものすごく変な感じがするけれど、でも身体感覚としてはそうとしか言いようがない。

だとしたら、その空虚さに対して“確信”をもって立つこと、それこそが「創造の本質」なのかもしれないなあと。

喩えるなら、テキストで小説を読み、そのときに自分の中に立ちあらわれてくる世界観と、その小説が映画化されて映像によって観ることの違いなんかにも、とてもよく似ている。

映画のほうが圧倒的に情報量が多いのに、テキストで読んだほうがその世界観は間違いなく豊かであるというように、です。

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そして、いま僕らが向かっているテクノロジーの世界、具体的にはAIやメタバース、バーチャルリアリティなどは、むしろ“見立て”を不要にしてしまう方向に進んでしまっているなあと思います。

昔は技術的に不可能だったけれど、今はそれが可能だから、なんでもかんでも情報過多にしようとしている。

たとえば、数年前の紅白歌合戦でとある演歌の歌手の方の背景に用いられていた桜吹雪のバーチャルリアリティ。大変申し訳ないけれど、あの季節外れの桜吹雪には、なんの風情もなかったです。なんなら少し嫌悪感を抱いてしまうほどでした。

あとは、何度も書いてしまいますが、最近強く実感した事例だと大阪万博の大型ビジョンの数々と、各国の映像を高解像度で撮影したドローン映像なんかもそう。

映像だけだったら家でも見られるし、大型ビジョンにしてまで見せる映像なのかと僕は思ってしまいました。

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このようなギミックはむしろ、僕らの感性や五感を鈍くしてしまうだけ。バグらせるだけ。確かに一瞬バグるから、何かハッとはするのだろうけれど、それだと何の意味もないと思うんですよね。

それよりも、世界各地から実際にもってきた小さな置物や物体として存在するテキスタイルのほうが、圧倒的に僕の目には魅力的に映った。

そこに「見立て」や「妄想」が勝手に生じるからなのでしょうね。この、見る人間が捉えるイマジネーションの力、それを引き込む力が大事なんだろうなあと。

まさに「直に観る」としての直観の力です。

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つまり、小さな物、空っぽなものの中に宿る見立てのほうが、結果的に五感に訴えるものがあるという、ものすごい逆説です。

そのほうが圧倒的に本人の中では情報量が増えてしまう不思議。

そして、そのための呼び水として、用いられる作用があるもののほうが結果的にひとに与える印象は大きいということなのでしょうね。

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また、そのような見立てを他者と共に行うとき、そこにこそ初めて“場”が立ち上がる。

つまり、そこに、お互いに見立てること、「共に味わう」ということが初めて可能となる。

この点も、非常に重要な視点だと思います。

先ほどの茶の湯の話もそうですが、そんな堅苦しい話だけに限らず、僕らはわざわざ他者と共に飲食店に足を運んだりするわけですよね。

そうすることで感じられる「味わい」があると直感的に認識するからこそ、わざわざ共に訪れるわけじゃないですか。

そのような共同作業が、AI時代には逆説的にものすごく価値を持っていくようになると思います。

いや、もはやここまでくると「共同作業」というよりも「共同幻想」を立ち上げるというほうが近いのかもしれない。

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「空っぽ(エンプティネス)」だから見立てられる、無限の可能性を秘めているというこの逆説がとても大事になってきているなあと思うのです。

Wasei Salonの読書会なんかもまさにそう。小説を共に読んできて、そこにそれぞれの見立てがあるから成立する。

そして、これは両者の身体感覚への信頼や、相互交流が互いに敬意を持って行われるから実現可能でもあると思うんですよね。

まさに一座建立であり一期一会なんでしょうね、その場限りで再現性がなく二度とないからこそ、「もののあわれ」のようなものも感じられる。

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AIが跋扈する情報過多の時代、僕たちはつい「欲しいもの=完全な再現(正解や満たされたもの)」だと信じ込んでしまう。

でも、実は本当の満足をもたらすのは、むしろ他者と共に「空っぽ」をともに抱え、想像で満たし合う共同作業なのではないか。

そして、喫茶去というのものだって、たかが一杯のお茶かもしれない。でもそこには、確信に満ちた「エンプティネス」が生まれてくると思うのです。

テクノロジーが埋められない隙間を信じて、それを祈るように見立て、重層的に重ねていく。その営みにこそ、これからの人間の創造性とコミュニティを底支えすると、僕はなぜか強く確信しています。

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にも関わらず「欲しているものはコレでしょ」と、AIで擬似的なコンテンツを散々作り出して、その再現性の話ばかりをしても仕方ない。

人間の五感に対して、それらはむしろ圧倒的に不健全。

それは、これまでに興味がなかったひとに向けて、気を引くための撒餌としてはいいのかもしれないけれど、でも本来導く先へといざなうための「嘘も方便」として用いる必要があるのだと思います。

僕は、その先にある本当に価値あるもの、本質的なものにみなさんと共に辿り着こうとしていきたい。

そのためにも引き続き、伝統文化とテクノロジーの交差点みたいなものを問い続けていきたいなあと思います。

きっと、そのようなあわいに、これからの時代に必要な「適切な邪道」みたいなものも存在すると思うからです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。