先日、とあるパネルディスカッションの動画を観ていたとき、教育者であり社会学者でもある鈴木寛さんが、「AIと人間の違い」、そして「人間の条件」について非常に興味深い話をされていました。
その中で引用されていたのが、福沢諭吉の言葉です。
福沢は「人間の条件」として、以下の5つを挙げたそうです。
「身体」「知恵」「欲」「良心」「意思」
特に「欲」が含まれていることに、鈴木さんは「さすが福沢諭吉だ」と強く唸っていて、僕自身も思わず唸ってしまいました。
人間だからこそ、持ち合わせているものが「欲」。
では、僕らはこの「欲」といかに向き合えばいいのか、改めてこのブログの中で、いま丁寧に考えてみたいなと思います。
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この点、誰もが強く実感していると思いますが、人間にとって「欲」ほど厄介なものはないかと思います。
だからこそ、各伝統的な宗教も基本的には「禁欲」的な方向へと舵をきるわけですよね。
でも、その方向性においても、もうAIには勝てない。
欲を節制するのは、AIのほうが圧倒的に得意。欲を節するどころか、最初から“無欲の存在”であるわけですからね。
でも僕ら人間は、欲を持って生きなければならない。
欲を持たない人間は、そもそもごはんを食べたいとも思わず、生命維持もできないわけですから。
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で、これは逆に言えば、世の中にAIが登場する以前、知性を持つ存在が人間しか存在しない場合においては、禁欲的な方向に振り切るだけで良かったのかもしれません。
実際に、歴代の仏僧や神父たちが厳しい修行を通じてそうしてきたように、です。
彼らは人間社会の中で、疑似AIみたいな役割を果たしていた。
でもそれさえも、もうAIに置き換えられてしまう。AIはそもそも、その欲自体を知らない。『葬送のフリーレン』の中に出てくる「魔族」みたいなイメージです。
だとすれば、僕らはどうやってそんな人間固有性の「欲」というものと改めて向き合う必要があるのか。
言い換えると、「欲」をどうやって手なづけながら、人間の固有性を大切にするのか。
そんな新しい時代の欲の向き合い方について、とても重要な問いになってきているなと思います。
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では、そもそもなぜ、欲は人間にとって良くないものとされているのか。
それはカンタンで、欲が「執着」となり、本人の身を滅ぼすからですよね。
以前もご紹介した哲学者・苫野一徳さんの言葉、
「愛着」は対象を慈しみ、「執着」はおのれの欲望に拘泥する。
これは本当にわかりやすい表現だと思います。
だからこそ、仏教でも、慈悲は肯定されたとしても「愛」は執着の原因だとして完全に否定されてしまう。それがキリスト教なんかと大きく異なる点です。
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じゃあ、果たして本当に「執着」は良くないことなのか、一概に否定されるべきことなのか。
僕は、決してそんなことはないと思っています。
なぜなら、どんな愛着だって、最初は執着から始まるわけだから。それは、どんな愛も、最初は恋から始まるように。
本来、人間には「欲望」は必要不可欠。
「恋は、自己ロマンの投影と、それへの陶酔」だと哲学者・苫野一徳さんは言います。
そしてその自己ロマンとは、過去の挫折や満たされなさから生まれた“憧れ”の投影に他ならない。
苫野一徳さんの師匠である哲学者・竹田青嗣さんも、著書の『恋愛論』の中で以下のように語ります。
”憧れつつ生きること”は人間が生を味わう力の根源にほかならない。人間がまったく何ものにも憧れないなら、生はただ、生存を維持するための必要に還元されるだろう。
この言葉の通り、「欲」は単なる衝動ではなく、前に進もうとするエネルギーであり、生を味わうための原動力なんです。
つまり、人間が食べなくては生きていけないことと同様に、自己ロマンへの欲望こそが、人を前に進ませ、生を味わわせてくれるものとなり、「欲」それ自体は人間にとって、むしろ生きる力そのものだとすら言えるということですよね。
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で、だとすれば、ここでの真の問題は、そこからどうやって「真の愛」の形へと、つまり「執着」ではなく「愛着」としての慈悲の方向へと向かっていくのか、ということだと思うのです。
もっというと、自己ロマンが完全に崩れ去り、目の前の事象が完全にカエル化したあと、そのときの私の「欲」との向き合い方。
ここで、少し話は脱線しまうのですが、きっと現代の生き辛さみたいなものは、個々それぞれの文脈がバラバラになりすぎて、何でもかんでもすぐに「カエル化現象」してしまうことだと思っています。
具体的には、意識している点、大切にしているところ、必死に求めていたそんなロマンが、いとも簡単にひっくり返えされる。
なんなら目の前で、なんの悪意もなく堂々と「踏み絵」を踏まれてしまう。
そんな場面を目にしてもなお、「私のロマンがカエル化してしまったけれど、それでも共にいるにはどうしたらいいのか」を僕は考えたい。
それが、最近僕がコミュニティをつくるうえでずーっと考え続けていることだったりします。
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じゃあ、そうやってバッティングしてしまって絶望した者同士が、どうやったらそこに慈悲深さを築きあげることができるのか。
それが、恋から愛へ、そして愛からもっと根源的な「愛おしさ」に変えていくということなんだと思います。
今日の主題と一番の主張も、この「愛おしさ」にある。
で、これは、まさに小説『カフネ』のタイトルにもなっている言葉の意味、そのものでもあるなあと。
過去にも何度かご紹介しましたが、カフネという言葉の意味というのは、ポルトガル語で「愛する人の髪にそっと指を通す仕草」だそうです。
日本語にとても訳しにくい言葉であり、この物語は、この訳しにくい言葉の意味を、長い長い「物語」を通じて、その意味を証明・論証するような物語となっています。
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実際に、この本を手にとって読んでみて欲しいのですが、そうやって読んだ人たちの多くがその論証に納得したからこそ、本屋大賞に選ばれるほどの作品となった。
つまり、この作品が多くの人のこころに実際にちゃんと届いたのは、「愛おしさ」という感覚が今この時代に必要とされているからなのだと思います。
漠然と、でも直感的に、この「愛おしい」という気持ちが今とても大事だと思われているんだと思うんですよね。
それは、いわゆるポジティブな感情としての「好き」とか「共感」とか「似てる」とか、そういうことでは全くない。
相手との圧倒的な違いを認めたうえで、それでもなお、もっと深く相手の感情に共鳴をして、心から愛おしいと思えるような関係性を、ゼロから構築していくこと、その価値です。
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「こんなにも私達は絶望的に異なっていて、しかし一方で私たちは、こんなにも希望的に同じである」という、そんな強い矛盾を実感し受け入れること。
そのこころの揺れ動きを、そのまま受け止めて抱きしめるような行為がきっと「愛おしさ」を心から味わうということなんだろうなあと。
それは、自分の思い通りになるような支配欲のような自己所有感ではなく、その人がその人らしく成長発展していけるように、ただただ見守ること。
絶望した瞬間に相手を切り捨てることもなく、でも一方で、ものすごく自分本位的に相手に対して能動的に関わっていく行為でもある。
その両方が、同時に成立していること。
つまり、どうやって自らの「欲」という原初の体験を、その「愛おしさ」になるまで架橋していくのか、それがいま僕ら人間側には深く強く問われていると思うのです。
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これは逆の視点から眺めてみると、そんな関係性を構築するためにこそ、人間には「欲」が存在し、人間をそのスタート地点に立たせてくれているのかもしれない。
もし、欲というような衝動が存在しなければ、決して「愛おしさ」には到達できないわけですから。
AIはどれだけ知性を持っていても、 僕たちに何かを強要してくることはありません。怒りもしないし、裏切りもしないし、突然嫌いになることもない。ただただ、指示された通りに動くだけの存在。
繰り返しますが、人間と違って、そこに「欲」がないからです。
そして「欲」がないということは、同時に「愛おしさ」にも到達できないということでもある。
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もっというと、一見するとネガティブな感情だと捉えられる「怒り」や「憎悪」のような感情でさえも、このような「愛おしい」状態に到達するためには、必要不可欠なものなのかもしれない。
それは英雄譚の物語の中において、苦難や悪役が必ず必要なように、です。
人間だけの「欲」を起点にしながら「愛おしさ」に到達する。
少なくとも、僕ら現代人が、いちばん納得感を得やすい感覚だと思います。
ここをどうやって、他者とともに生きる中で到達していくのか、僕はそれをこれからも真剣に考えていきたい。
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そして、きっとそのときには間違いなく「ダニング=クルーガー効果」みたいな曲線を辿るはずなんですよね。
つまり、一度は必ず深い深い「絶望の谷」に落とされる。
とはいえ、それは通過儀礼なもので、バカの山からは誰もが一度完全に落ちなければいけない。
そして、その絶望の淵から「愛おしさという継続の大地」を登り続けるほかないわけで、その緩やかな傾斜が続く大地に、頂上は存在しない。でもそんな坂道を、みなさんと共に歩んでいきたい。
これがまさに、「煩悩即菩提」みたいな話でもあるなあと思います。
煩悩こそ人間の本質、そしてその煩悩は、そのまま菩提の道へと通じている。
僕はそう信じているし、きっと今のように世界の分断が深まり、なおかつそこに人間の知性を上回るAIが出てきたことによって、僕らはより一層それを強く自覚していくような気がしています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。