ここ最近しばらくずっと考えているのだけれど、いまだに自分のなかでうまくまとまりきらないことがあります。
たとえば、これからAIがマイナンバーカードなどと紐づいて「ひとりイチAI」のような世界が訪れたとします。Aさんには、Aさん専用のAIエージェントがいる。Bさんには、Bさん専用のAIエージェントがいる。
それぞれのAIは、自分の主人のことをかなり深く理解している。予定も仕事の進捗も、お金の使い方や健康状態なんかもそうですし、長く付き合ってきた人たちのことも、おそらくかなりの精度で把握しているわけです。
で、その互いのAI同士が、これからは連携するようになっていくはずです。
つまり、AさんのAIとBさんのAIが、お互いの主人にとって一番よい着地を探し、交渉をして、実行までしてくれる。
そうなったとき、本人の知的能力や実務能力の差は、いまよりもかなり小さくなっていくはずなんですよね。
もちろん「AIをどう使うか」という差は残るとは思います。
けれども少なくとも、個人のスキル差がそのまま圧倒的な格差として残り続けるわけではない。かつてあれほど重宝されたプロンプト集が、いまではあまり価値を持たなくなったように、です。
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つまり、それぞれの人の背後に、その人のためだけに動く「超優秀な参謀」がつくようになっていくわけです。
で、これは、普通選挙制に近いインパクトがあるのではないか、と僕はいま漠然と思っています。
普通選挙制が一人ひとりに政治的な一票を与えたのだとすれば、ひとりイチAIは、一人ひとりに交渉力や実行力や参謀機能を与えてくれる。
誰もが、自分のために動いてくれる絶対に裏切らない代理人のような存在を持ち、その代理人同士が交渉をし、調整し合う、いわば「普通代理制」のようなもの。
書きながら、これはなかなか大きな話だな、と自分では思っています。超優秀な背後にいる生身の人間の存在、その「人権」こそが一番の価値となるわけですから。
なんなら、それ(人権)をハックするために、子どもをポコポコたくさん産みはじめる人だって出てくるかもしれない。
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ただ、その力というのは、単独ではそれほど意味を持たないだろうなと思います。
そして、その手前に必ず必要になることがある。
それは、AさんとBさんが、お互いに「このひとであれば、接続してもいい」と思えること。たぶん本当に大事なところなんです。
AIがどれだけ賢くなっても、「この人のAIと、自分のAIを接続していいのか」という判断だけは、最後まで人間の側に残るのではないか。今はそんな気がしています。
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もちろん、「友達の友達までは自動接続」のように、接続の範囲がある程度まで半自動化されていくことはあるとは思います。
それでも、その基準をどこに引くのかを決めるのは、やっぱり本人です。
で、接続するというのは、ただAI同士をチャットさせるという生ぬるい話ではありません。
自分のありとあらゆるすべての条件を、プライバシーはマスキングしながらも、相手のAIに渡すことになる。
場合によっては、自分の代わりに交渉や契約、送金の権限まで渡してしまう。
そう考えると、AI同士を接続するというのは、現代で言うところのLINEを交換するよりも、住所を教えるよりも、はるかに相手の深いところに踏み込む行為なのだと思います。
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だから、当然のように怖いわけですよね。
便利すぎて怖い、というのが僕も正直なところです。
ただ、だからこそここに人間同士の信頼関係の意味が、これまで以上に大きく立ち上がってくる。
この人のAIと自分のAIをつなげても、お互いに長期的により良い方向に向かえると信頼できること。
この人なら、自分の弱みや尊厳を悪用しない。この人のAIになら、自分のAIを近づけても大丈夫だ、そう素直に思えるかどうか、です。
そして、この「接続してもいい」と思える感覚は、プロフィールや実績だけでは決して測れないはずです。
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たとえば、『男はつらいよ』の寅さんのことを、思い浮かべるとわかりやすい。
「もし自分のAIエージェントを、誰かのAIと接続するとしたら」と考えたとき、僕は、寅さんとならつなげてもいい、となぜか思ってしまうんですよね。
冷静に考えれば、これはかなり不合理な判断です。
寅さんは定職に就かずふらっといなくなり、商売もうまくいかず、女に惚れっぽくて、行く先々で騒動を起こすわけですから。
プロフィールと実績だけを見れば、明らかに「接続すべきではない相手」のはずです。
一方で、あの物語には、インテリやエリートもたくさん登場します。大学教授や医者、大企業サラリーマンなどです。そして、彼らのAIと接続したほうがきっとお金は儲かるだろうし、社会的な地位だって得られるかもしれない。
それなのに、彼らとつなげたいとは、全然思えない。この感覚って、ほんとうに不思議だなと思うのです。
たぶんこれは、妹のさくらの感覚に近いのだと思います。
さくらは、寅さんに何度も振り回されて迷惑をかけられても、それでも見捨てない。あれは「いつか得をするから」ではないですよね。
極端に言えば、寅さんになら裏切られてもいい、という感覚なのだと思います。
つまり、金銭的なメリットや社会的なメリットよりも、この人とともに生きたいと思えるかどうか。接続の判断の一番深いところにあるのは、たぶんソレなんです。
そして、僕も寅さんを50作すべて触れるうちに、寅さんのそんなところに見事に惚れ込んでしまいました。
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で、この感覚は、映画や物語のなかだけの話ではありません。最近、もっと身近なところで、それを強く感じた出来事があったのです。
Wasei Salonメンバーでもある佐田さんが昨日、ご自身のSubstackに、「社会的に正しい働き方 or 自分が思う良い働き方」という記事を投稿されていました。
「遅刻をしない。納期に遅れない。早めに返信する。報連相を徹底する。」社会人として最低限とされるふるまいが、自分にはどうしてもうまくできないことがあり、そのせいで何度も信用を失ってきた、と。
けれども、正しいとされるものに適応し続けることと、自分にとって良く生きることは、必ずしも同じではないのではないか。そんな問いを、まだまとまりきらない状態のまま、率直に書き残した文章を公開されていました。
「公開するかどうか一週間も迷い、その迷いごと公開した」とつぶやきにも書かれていたんですよね。
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正直に言えば、ここで告白されているのは「社会一般的には信頼されない態度」だと思います。遅刻やレスポンスの遅さは、世間の基準では完全に減点でしかない。
プロフィールにも実績にも、一切プラスには働きません。
それなのに、僕はこの文章を読んで、佐田さんへの信頼が、むしろ深まったんですよね。
そして、そう感じたのは僕だけではありませんでした。同じくWasei Salonメンバーのタナカユウキさんが、この記事へのコメントで似たようなことを書かれていた。
こういうところにこそ、佐田さんが人から信頼される理由がある、と。
佐田さんは、自己の中の矛盾と誠実に向き合いながら、自分と相手と環境と仕事の仕方の、物事がより良く運ばれる組み合わせを選ぼうとしている。
しかもタナカさんは、それを「良い」と言い切ってしまうことへの「ためらい」までを丁寧にコメントとして添えていました。
で、それらを読みながら、「そう!そうなんですよ、僕がお二人のことを心の底から信頼したくなる理由はここにある!」と思わず強く膝を打ちました。
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佐田さんは、開き直っているわけでは決してない。「遅刻ぐらいいいだろう」と割り切ってしまえば、ずっと楽になれるはずなのに、決してそうはしない。
社会の正しさを否定するのでもなく、かといって自分を全否定するのでもなく、その間でちゃんと葛藤し続けている。
そして、その葛藤を引き受けたうえで、自己開示と役割分担という、自分なりの組み合わせを模索している。
たぶん、信頼の核心部分は、ここにあるのだと思います。
割り切った末の態度なのか、それとも葛藤した末の態度なのか。表面上は同じふるまいに見えても、この二つはまったく別物です。
そして僕らは、その違いを意外なほど敏感に察知し合って、感じ取っている。
考えてみれば、遅刻をしないことも、即レスも、ひとりイチAIの時代には、AIエージェントがほぼ完璧に代行してくれるはずです。つまり「社会的な正しさ」で測れる側の信用は、これからどんどん平準化されていく。
そのとき最後に残るのは、葛藤の厚みのほうなのではないのかなあと。
そういう小さなふるまいの積み重ねと、それを見てきた共同体の歴史や記憶のなかで、「この人なら大丈夫かもしれない」という感覚が、ゆっくりとゆっくりと育まれていくイメージです。
AI時代に本当に効いてくるのは、そういう時間の厚み、葛藤の共有の歩みなのだろうな、と思います。
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ここまで考えてくると、これはまったく新しい話というよりも、むしろ古いものが別の姿で戻ってくる話なのかもしれない、と思えてきます。
たとえば頼母子講や結のような仕組み。当時、顔の見える関係性のなかで、お金や労働や助け合いが、地域内コミュニティで循環していたわけですよね。
誰かが困ったときには、みんなで少しずつ出し合う。一人ではできない作業は、互いに手を貸し合って片付けるというような。
そこではまず「あの人なら大丈夫だろう」という信用が先にあり、その信用をもとに、お金や労働、日々の生活が動いていた。
だとすれば、AI時代のコミュニティは、その預け入れられた信用を、AIエージェント同士の接続権限に変換する仕組みになる。同じ骨組みが、別の通貨によって立ち上がってくるイメージです。
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これまで、コミュニティというと、「仲のいい人たちが集まっている場所」というイメージが強かったように思います。情報交換ができる場所や、気の合う人たちと出会える場所。もちろん、それも大切なことだし、それはこれからも続いていく。
ただ、より高度なAI時代になってくると、コミュニティの価値はもう一段深いところに移っていくはずです。
仲がいいことそのものでも、スキルの高い人が集まっていることでもなく、「この人のAIとなら、自分のAIを接続してもいい」と思える人間関係が、長い時間をかけて育くんでいく、そのための場所となっていくはず。
その厚みのほうに、価値の重心が徐々に移り変わっている確信が、いま僕の中で強くあります。
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ただ、もちろんここで一度立ち止まっておきたいこともある。
顔の見える信用の蓄積というのは、裏返せば、新しい排除の構造にもなり得るということです。
能力の差が平準化されていく世界で、もし「誰のAIとも接続してもらえない人」が生まれたとしたら、その人は一体どうなるのか。
スキルの格差が縮む代わりに、接続の格差が固定化していくのだとしたら、それは僕がこれまで書いてきた「世間」の構造が、より強固な形で再生産されるだけなのかもしれない。
この問いに、いまの僕はまだ答えを持っていません。
ただ、この影を見ないまま「信頼が大事だ」とだけ言うのは、きっと不誠実なのだろうと思いますし、この葛藤を共に考え続けることも、また同時に「信頼」を深めることにつながる部分もあると思うので、あえて、そんな葛藤もここに書き残しておきたいと思います。
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ただ、それでも、やっぱり強く思うのは、AI時代に問われるのは、「どれだけ優秀か」ではなく、「誰となら安心してつながれるか」。
もっと言えば、自分は、本当は誰とともに生きたいと思っていたのか。(あえて振り返る形なのは、その答えはもう自分のなかに明確にあるはずだから)
あの人なら大丈夫だと思えること。すぐに奪い合うのではなく、一緒にパイを大きくしていこうと思えること。
誰とでもつながれる時代だからこそ、誰と深くつながるのかが、これからは一気に効いてくるはずです。人柄や、ふるまい、その葛藤の厚みが、逆説的に際立ってくる。
そして実は、今日のこの話には続きがあります。預け入れられた信用の「来歴」を、技術はどう記録するのか、AIはそれをどう計算するのか。
次回は、NFTの話から、そのあたりのことを考えてみたいと思います。今日語ってきたような信頼の来歴をお互いに担保し合うバーチャル上の仕組みこそNFTだったよね、というお話です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/06/11 16:41
誰のAIとなら、深くつながってもいいのか。
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