昨日のブログでは、「誰のAIとなら、深くつながってもいいのか」という話を書きました。


これから「ひとりイチAI」のような世界が訪れたとき、人と人がつながるということの意味は、かなり変わってくるはず。

そのとき僕たちは、「この人とつながりたいか」だけではなく、「この人のAIに、自分のAIを近づけてもいいのか」を問うようになることは間違いありません。

そして、その判断のもとになる信頼は、プロフィールや実績では決して測れない。葛藤の厚みのなかで、ゆっくりと育まれていくものだ、と。

今日はそんな昨日の話の続きです。では、その信頼とは一体どこに宿っているのか。

僕は、「来歴」に宿るのだと思っています。

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この点、人間と人間の信頼というのは、決してこの瞬間の評価ではないんですよね。

この瞬間に判断できるものは、あくまで「信用」。そして信用は記号(数値)化可能。

でも、相手を信頼し、深く接続してもいいかどうかを判断するとき、僕たちはもっともっと別のものを見ているはずです。

その人と、共にいる時間の中で、相手が何をしてきたのか。

あとは、どんな葛藤を自らに誠心誠意、引き受けてきたのか、もっと言えば、何を引き受けたくても引き受けられらなくてその人が苦しんできたのか。

そんな要素のほうが、信頼を形成するうえでは、非常に重要な要素になると思います。

つまり、信頼とは「点」ではなく「線」なんですよね。

いまこの瞬間の記号的スペックではなく、その人がこれまでどんなふうに歩いてきたのかという、時間の中に残されたふるまいの軌跡、そこにこそ、信頼は宿るのだと僕は思います。

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で、考えてみれば、昨日書いた昔ながらの地域コミュニティにおける頼母子講や結のような共同体というのは、まさにこの来歴を記憶しておくための仕組みだったのだと思います。

あのとき、あの人は助けてくれた、あのとき、短期的に得をする選択をあえてしなかった、などなど。そういう行為は、履歴書には一切残りません。数字にもなりにくいし、外から見てもほとんどわからない。

でも、同じ場に長くいる人たちのあいだには、なんとなくの空気や身体感覚として、たしかに記憶として残っているわけですよね。

それゆえに、「あの人なら、今回も大丈夫かもしれない」という感覚なんかも自然と湧いてきて、共にいた時間の積み重ねのなかで、「信頼」が自然と育まれていくわけです。

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ただし、人間の記憶には、明確な弱点もあります。

ものすごく人間味があってあたたかい反面、あいまいであって、閉じているし、ものすごく偏っていたりもする。

たとえば、コミュニティ内に古くからいる人だけが評価されたり、内輪の空気にうまく乗れない人の来歴が見えにくかったり、声の大きい人の物語だけが残ってしまったりもするわけですよね。

それに、記憶は共同体の外には持ち出せない。

共同体そのものが消えてしまえば、そこで積み上げてきた信頼も、一緒に消え去ってしまいます。

顔の見える「信頼」は大切ですが、でも、それだけに頼りすぎると、簡単に閉じた「世間」になっていってしまう。

昨日書いた「誰のAIとも接続してもらえない人」が生まれる構造とも、この話は地続きの話です。

だからこそ、信頼の来歴をどのように残し、どのように開いていくのか。

この問いが、これからの高度AI時代には、かなり大事になってくる気がしています。

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で、ここで以前から僕が気にしてきたNFTやトークンの話が、少し違った意味を持って立ち上がってくるなと思っているのです。

数年前、NFTという言葉は、どうしても投機やバブルの文脈で語られてきました。

実際、そういう側面はかなりあったと思いますし、僕自身も、当時の熱狂には距離を置いていた部分があります。

むしろ、その熱狂に飲み込まれてしまったからこそ、多くの人にとってNFTは「結局なんだったんだろう…」というものに成り下がってしまった。

でも僕は当時から、NFTには単なる投機ではない何かがあるような気がしていました。それは所有証明というよりも、「関係性の来歴を記録するもの」としての可能性があると、散々このブログの中でも書いてきた。

同じNFTでも、自分で買ったものと、誰かから贈られたものとでは、意味がまったく異なるし、初期からずっと持ち続けているものと、一度売ったあとに買い戻したものも、やっぱり別物のはずです。

見た目は同じ(非代替性)トークンでも、それがどんな関係性のなかで手渡され、どんな時間を経て、なぜいまも手元に残り続けているのか。その物語の部分が、まったく異なるわけです。

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また、そう考えると、いわゆる「ガチホ」の意味合いなんかも変わって見えてきます。

これまでガチホというのは、精神力の話として語られることが多かったですよね。上がっても売らない、下がっても狼狽売りしない。要するに「握力」の話として、広く知られているような言葉がガチホです。

でも、来歴という観点から見ると、ガチホは単に「売らずに耐えること」ではなくなるはずです。

自分がどの関係性を手放さないのか、ずっと持ち続けることによって、ソレを表明する行為につながるのです。

あるコミュニティの初期トークンをずっと持ち続けているのは、「いつか値上がりするかもしれない」からだけでは決してない。

この場の未来に自分もちゃんと賭け続けている、この関係性を簡単には換金しないんだという矜持、その意思表示でもあるわけです。

つまり、 NFTのような機能をもつモノのガチホとは、握力ではなく、関係性を手放さない力のこと。

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とはいえ、人間はそんなにキレイにはふるまい続けることができないのも、また人間の性であり厄介さです。

価格が上がれば売りたくなるし、下がれば怖くなる。自分だけが損をしている気がして、他者の成功に嫉妬して、長く育ってきた関係性よりも、目先の利益を時に選んでしまったりもする。

これは投資だけの話ではなくて、人間関係でもコミュニティでも、まったく同じことが起きている。

いわゆる囚人のジレンマみたいな話です。

一回限りの関係性なら、相手を出し抜いたほうが得に思える。でも、同じ相手と長く関係が続く反復ゲームになると、話がガラッと変わるわけですよね。

一度裏切ればコミュニティからの信頼を失い、長期で見れば大きく損をするのだけれど、逆に互いに協力し続ければ、コミュニティ全体のパイが少しずつ大きくなっていく。

ただ、人間は、この長期の期待値を、しばしば見誤ってしまうんですよね。

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だからこそ、話がおもしろいのは    まさにここからで。

ここからの話を書きたくて、昨日のブログからここまで長々と書いてきました。

では、もしここにAIエージェントが入ってくると、一体何が起きるのか。

たとえば、つい先日アメリカのロビンフッドが、利用者のAIエージェントを専用口座に接続して、株式の売買を自律的に実行させられるサービスのベータ版を始めたというニュースがありました。

AIが「投資を助言する存在」から「投資を実行する存在」へと、はっきり一線を越えたわけです。

そして、この流れは、たぶん投資の世界だけにはとどまらない。

どの人と協業し、どの関係性をいまは絶対に手放さないほうがいいのか。そういう判断にも、AIがじわじわと、でもかなり深く関与してくるはず。

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そしてそのときAIは、目の前の価格やスペックだけではなく、その背後にある来歴を読もうとするようになることは間違いない。

この人とは長期的に協力したほうが、「期待値」が高いのだと。ここで出し抜くよりも、信頼を積み上げたほうが、結果としていちばん主人の得になる。

この共同体の評判を守ることは、巡り巡って主人個人の利益にもつながると、超賢い参謀が勝手に判断してくれるようになるはずです。

そんなふうに長期的な合理性を優先して判断するAIが増えていったとき、贈与や相互扶助は、単なる美談ではなくなっていくと僕は思います。

つまり、いい人でいることや、約束を守ること、長期的にパイを大きくしようとすること、それらが道徳としてではなく、明確な「期待値」として立ち上がってくる。

ここが、僕がいま本当におもしろいなと感じる部分なんですよね。

AIによって社会がドライになるのではない。むしろ逆に、長期的な相互扶助の合理性のほうが可視化されていく。

やさしさや誠実さが、きれいごとではなく、ひとつの「資本」として見える化されるようになるわけです。

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ただ、ここでも一度立ち止まっておきたいことがあります。

それが単純な「スコア」になってしまうと、かなり危ういはずです。

「この人は信頼スコアが低い」とか「来歴がないから接続できない」とか。そんなふうに人間の来歴がただの点数に変換されてしまえば、それは新しい監視社会と信用格差につながるだけです。

ほんんとうに大事なのは、スコア化ではなく「物語としての来歴」なのだと思います。

たとえば、同じ「売った」という行為でも、短期的な儲けのために売ったのか、生活を守るために売ったのか、誰かを助けるために売ったのかでは、その意味合いがまったく違う。

同じ「持ち続けた」でも、ただ忘れていただけなのか、葛藤の末に意志を持って持ち続けたのかでも、やっぱり違う。

人間のふるまいは、点数にすると必ず何かがこぼれ落ちてしまう。そして、こぼれ落ちるその部分にこそ、昨日書いた「葛藤の厚み」が宿ってくるはずなんですよね。

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で、どうしてもここで、もう一度「男はつらいよ」の寅さんの話をしたくなってしまいます。

もし僕のAIエージェントが、寅さんとの接続申請を期待値で審査したら、一体どうなるか。

AIはきっと合理的に、そして丁重に、接続をお断りするでしょう。

けれども、妹のさくらは接続する。そして僕も、寅さんとならAIの提案を無視して、接続したいと思ってしまう。

なぜなら、寅さんの行動原理は、必ず深い葛藤の先にあると知っているから。誰かを助けたい、ちゃんと自分の信念を貫きたいと思って、社会的には不合理な決断をしてしまう。

それは単なる愚かさとは、圧倒的に一線を画するわけでうよね。

視聴者もあの映画を見ながら「なんてバカな…」と思うわけですが、でもそれこそが寅さんが信頼に値すると、僕らが思ってしまう理由の核心部分でもある。

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期待値計算というのは、定義からして「割り切り」の極致です。AIは葛藤しない。佐田さんのように一週間迷って、その迷いごと公開する、なんてことも絶対にしない。

たとえそんな挙動をAIが示したとしても、僕らはそれを単なるAIのエラーだとしかみなさない。

だとすれば、葛藤の厚みのなかでしか育たない信頼の、一番深いところまでは、計算だけではたどり着けないのだと思います。

この問いに、いまの僕はまだ明確な答えを持っていないのですが、ここにこそ人間同士のコミュニティの価値が宿っていく部分だろうなと、漠然と感じています。

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最後に強く思うのは、台帳が記録できるのは、来歴という「事実」だけです。葛藤そのものは、どうやっても記録できない。

けれども、長く持ち続けたことや誰かに贈ったこと、値が崩れても手放さなかったことなど、その履歴自体は、所有者の葛藤の「痕跡」ではあり続けるわけですよね。

通帳の数字そのものに、人柄はうつらないかもしれないけれど、でも、何十年も几帳面に積み立てられた通帳と「コミュニティの記憶」、その双方を頼りにしていけば、その人の生き様がなんとなく透けて見えてくる、それと同じことです。

技術は、信頼を計算しきることはできない。けれども、「信頼」の足跡を残すことはできる。

そして、その足跡を読んで、最後に「この人とともに生きたい」と判断するのは、やっぱり僕たち生身の人間なのだと思います。

AI時代、僕たちはその来歴とコミュニティの記憶を通じて、もう一度「誰と深くつながっていたいのか」を、自分自身に問い直すことになるんだと思います。

とはいえ、このあたりは、まだ自分でも言葉にしきれていない部分が多いので、またこれからも定期的にブログに書きながら考えてみたいと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。