唐突ですが、旅をしたときの紀行文や旅行記のようなものは、すぐに書かないと、そのときに感じていたことって、すぐに消えてしまいます。

旅をして直後に書いてみようと動き出さないと、その旅の記憶って、もう一生書けなくなってしまうなあと思っています。

僕もそうやって「なぜあのときに書き残しておかなかったのか」と後悔している旅の記憶って、山ほどある。

今考えると、もっと20代のころに旅した記録を、しっかりと文章として書き残しておけばよかったなあと心底思います。

旅の記憶を書くという作業は、その瞬間に額縁やフレームにいれるような感じにも近い。

昨日の土田さんの話を書いたため、どうしても写真と絡めて考えてしまうのですが、写真を撮って、さらにそれを編集して、現像して、作品にして、いつでも見返せるような形にする作業というのは、ものすごく大事なことだと思うんですよね。

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でも、今はスマホが一台あれば、いくらでも写真それ自体は撮れてしまう。

そして、撮った瞬間の満足感のまま、特にそのあとに編集することもなく、カメラロールにドンドン溜まっていく。

強いて言えば、Twitterやインスタで公開するために編集を加える程度だと思います。

そうやって、フローの情報として、常に流れていくことがビックテックの企業にとっても嬉しいことだから、サブスクでコンテンツだけが届き続けるというジレンマ同様、撮って出しだけをひたすらに繰り返しやらされる。

でも、何かもう一歩踏み込んで、大事に編集してみる作業も、きっと重要で。

それと全く似たような作業が、文章のようなものでも、間違いなくあるなと思います。

Twitterのつぶやきではなく、ブログのまとまりまで丁寧に落とし込んで残しておくことの価値みたいなもの。

いつか整理しようと思っていても、そのいつかは決してやってこないし、そのうち過去の記憶や、赤の他人の記憶となってしまうから、本当に不思議です。

あんなにも鮮明で、印象深かった数々の出来事が、気づけば雲散霧消してしまうんですよね。鮮度みたいなものがそこには間違いなくある。

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昨日の土田さんの写真の撮り方の話にもっと寄せてみると、自分自身のなかで何かハッとするものがあったら、パッとメモして書き留めて、それをしっかりと文章にしてみることって、本当に大事だなあと思います。

その時には、第三の視点を入れ込んで。

そうすると、そこに「何か」が宿るんです。いや、いつか宿るかもしれない「依代」みたいなものが、そこに生まれる。

その一手間や作業それ自体が、自分にとって大事な記憶になることを促すと思うのです。

ここから今日の本題にも入っていきます。

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この点、僕らはどうしても、大事な記憶だから、それは書くに値することだと思っている。

ゆえに、書くに値する大事な記憶、そんな劇的な何かが、自分の目の前で起きるまで待ってしまうわけですよね。

でもきっと、本当はそうじゃない。

書いてみるから、それが大事な記憶に変化していくが、きっと正しい。

書いている当時は理解できなくても、その文章を5年後、10年後に振り返ったときに、大事な記憶になっていると。そうやって対象を、表現に落とし込む作業が本当に大事だなあと思います。

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この点、先日起きた中国の深センでの日本人が殺されてしまった悲しい事件をきっかけに、改めて自分が12年前に体験した、中国での反日デモに居合わせたときのブログ記事を読み返しました。

https://wasei.salon/timeline?filter=all&selector=messages?filter=all&message_id=8548161 

このブログは、今読み返しても、当時の情景がありありと自分の中に浮かんでくる。

そして、この記事だけは、いつ読み返しても、なんだか他人事だとは思えないんですよね。

いつもなら、去年書いた記事であっても、恥ずかしくなって途中でタブを閉じたくなる。でも、これはいつ読んでも、最後まで読み通したくなる。

もちろん、稚拙な部分は山ほどあるし、今ならもうこんな風には書かないだろうなあと思う部分もひっくるめて、最後まで読まなきゃと思う。

それは、すべてがあの時の、あの体験によって、それまでの自分とはガラッと変わってしまったと思うから。

そんな当時の自分が書いたものとして、「その変化自体」が、今も全く変わらずに「情報」として残っていることに価値がある。(非常にわかりにくい書き方でごめんなさい)

ほかにも奈良の天河大弁財天社を訪れたときに、自分が大きく変わってしまったブログなんかもそう。毎回、その時のことをありありと思い出すことができて、現在で受け取った自分自身が襟を正す。

どちらも狙っていたわけでもなんでもないし、本当に偶然起きた出来事なのだけれども、今振り返ってみると、あれが原体験だと認識するような出来事となっています。

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この、自分自身が「現地の空気を吸って、ガラッと変わってしまった感覚」を残しておくことって、本当に大事だなあと。

でも、これは逆説的なんですが「書いたから変わったんだ」とも思うのです。

そしてここが今日一番伝えたいポイントでもあります。

僕がもし「あとで書けばいいや」と思って見過ごしていたら、きっと変わった自分は居たはずなのに、そこに無自覚のまま、またいつもの日常に戻ってしまっていたと思うのです。

でも、書いたことによって、そういう変化みたいなものがあったことを、未来の視点から遡行的に発見している(発見し続けている)のだと思うんですよね。

このあたりは本当にややこしい説明で申し訳ないのですが、そのような切り取った記事があるから「あのときに、間違いなく自分自身が変わった」と言える状態に、事後的になっている。

もしこれらの記事が、自分の人生の中における石碑のように存在してくれていなかったら、たぶん同じことを、今の自分が思っていたかどうかは、正直怪しい。

大事な記憶だったから書いたのではなく、戸惑っている自分自身をそのまま率直に書いたから、「大事な記憶」になっていることは間違いないんです。

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そしてきっと、ひとの原体験が形成される過程って、こういうことだと思うんですよね。

自分で起業をしたり、事業を始めたりしたことがあるひとにとって「私の原体験とは何か」を一度は考えたことがあるはずです。

そうすると、確固たるものとして存在しているはずだという派の人と、「いやいや、そんなものは、後付のパフォーマンスに過ぎないんだ」という派の人に見事に分かれる。

僕は、どちらも正解で、どちらも間違っていると感じます。

自分が言葉にして、自分がそのときに見聞きした対象や経験に対して、責任や敬意を持つこと。そのときに原体験へと昇華される。

ここでもやっぱり僕は「敬意」の問題だと思う。

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自分の記憶の問題だから、その体験や記憶に敬意を持つなんてバカげたことだと、誰もが思うはずです。僕もそうでした。

でもその場で感じたこと、自分がその記憶や対象に対して感じた敬意を、丁寧に言葉に落とし込んでおく。そうすると、本当の意味での「生きた原体験」になる。

いわゆる結婚式やお葬式などの冠婚葬祭を含めた儀式や通過儀礼みたいなものも、この役割があるんだと思っています。

未来から振り返ったときに、大事な瞬間だったと振り返りたいから、ひとは”型通りの仰々しい儀式”を行うのだと思います。

そして実態としては、そのような儀式を厳かに行ったから、あとになっても大事な記憶として残っているというのが、真実だと感じるひとは多いのではないでしょうか。

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きっと、これが東浩紀さんの「訂正可能性」の話にもつながると思うけれど、このような認知の逆転みたいなことが、至るところで起きているなあと僕は感じています。

そして、それが「私」という存在の、幸福そのものにも直結する。

つまり、自分の変わってしまった体験や経験に対して、ちゃんと敬意を持って、それをひとつの表現にまで落とし込めるかどうか。

そのときの気持ちを、ありありと思い出せるようなものとして、自分の中で昇華させることができているかどうか。

それがとても大事な気がしますし、それが残っていれば「あのときに私は変わったのだ」とそのときの自分からの贈与として素直に受け取れる。

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中国の反日デモにまつわるブログを書いたときも、驚くほど多くの方に読まれて、その結果、有象無象の方に届いて、たくさんの批判も飛んできました。

Twitter上でも、売国奴とたくさん罵られた。

でもそんな世間からの言葉も関係なく、あのとき、あれを書いた自分に対しては、今も深い誇りを感じています。評価は関係なく、自分にとっての価値がちゃんと宿っていると思うから。

それはやっぱり、しっかりと言葉にしたからだろうなあと。当時の自分にとって、これ以上敬意を込める書き方はできなかったというある種の諦めと満足感がある。

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だから、これからも今の自分のできる限りの最大限の力を用いて、敬意を持って、表現に落とし込んでいく作業を大切にしていきたい。

そして、これを読んでいるみなさんにも、書いてみることを本当にオススメしたい。もちろん、文章に書くだけではなく、それぞれが持っている表現の手法で構わないから。

いつかやろうと思っている、その鮮度は思いのほか短いことは、常に肝に銘じたほうがいいかと思います。

人が生きていれば、必ずそうやって未来の自分が振り返ったときに自分にとってかけがえのない”原体験だった”という記憶のようなものは日々何かしら、経験しているはずです。

そこに敬意を持って、自分なりの表現に落とし込めるかどうか。

もし周囲の反応が怖ければ、そのためにこのWasei Salon内のブログや、その他の機能を思う存分、活用してみて欲しいなと思います。

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繰り返しになりますが、大事な経験は外側ではなくて、既に自分自身が通り過ぎたところに必ず存在している。

あとはそれを「どうせ自分なんかの経験だから…」と卑下せずに、敬意を持って、自らの表現までに落とし込めるかどうか。

そうやって「大事な記憶」にするために、勇気を持って表現することを僕は応援していきたい。たとえ世間の全員がその表現に石を投げたとしても、ここだけは石が投げられない空間として。

自分が当時、数少ない理解ある人々から、そうやって助けてもらったから。それをこの場でしっかりとペイ・フォワードしていきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。