ここ最近、Wasei Salonに20代前半の方々が続々と参加してくれていて本当に嬉しい変化です。
これは間違いなく、AIの波のおかげだと思っています。
生成AIの社会実装がいよいよ本格化する中で、いま、他者との「対話」や「問い」を通じて、本質的なことを真剣に考えてみたい、そんな若者が着実に増えてきている。
そしてこれは、明らかに次の時代の新しい潮流だなとも感じます。
今日はそんなお話について、このブログにも書いてみたい。
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この点、いま20代の若いひとたち、特に大学生のみなさんは、本当に息を吸うように何の躊躇いもなく生成AIを使っているように見えます。
当然ですよね、もう生成AIが注目されてから、3年以上も経過しているのですから。
僕ら30代以上の世代にとってAIは「つい最近のこと」かもしれない。
でも彼らからすれば、中学生は高校生に、高校生は大学生になっている期間です。10代の数年間というのは、僕らの10年分くらいの感覚の変化があるわけですよね。
そんな彼らが、これから社会に出てきて、それこそAIを“身体の一部”のように使いこなして仕事をしていく。
それは、僕らの世代がSNSやスマホを既に身体の一部のように扱っているように、です。
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そのときに、一体何が変わっていくのか。
実際に彼ら・彼女らが見ている世界観を共有してもらって、彼らの視座をお借りして眺めてみようとしないと、決してわからないことがあるだろうなあと思います。
それを思う存分発揮してもらえるチャンスと、それを生で見せてもらえる機会を、このサロンを通じてつくることができているのは、非常にありがたいことだなあと。
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で、Wasei Salonに新たに参加してくれる20代前半のメンバーさんたちが、あたりまえのようにChatGPTを使ってブログを書いてくれていること、それが本当に素晴らしいなあと思っています。
そのような姿を見せてもらうたびに「時代は大きく変わったな」と強く実感をする。
もっと具体的に言うと、ブログを書くという行為自体が、今の20代前半には「カンタンな行為」になっていることそれ自体が、とても良いことだなと思うんです。
これまでは、ブログを書いてもらうってことそれ自体が、本当にむずかしかった。めちゃくちゃハードルが高いことでした。
でも今は、何か自分の中に言いたいことがあって、それを箇条書きでもいいから、AIに対してぶつけてみると、それがそのまま公開しても恥ずかしくない程度の文章に変換して出力されるわけですよね。
良い意味で、文章としてのクオリティ部分を、AIにすべて責任転換ができるわけです。
あとはその出力されたものを自分なりの言葉や、自分らしい表現において少しだけ形を整えていけば良いだけ。
そのような作業であれば、確かに誰でも気軽にできてしまいます。自分の文章に自信があるかどうかは、まったく関係がない。
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この感覚の変化は、小さな出来事に思えるかもしれないけれど、コミュニティ運営をする側、つまり自己開示をしてみて欲しい側からすると、めちゃくちゃありがたい変化だなあと思います。
これまで、20代前半は素晴らしい直感力やセンス・潜在的能力があったとしても、それをある程度まとまった言葉にできるだけの文章力を持たない場合が多かった。
でも今は、それをすべてAIが代わりに言語化してくれるわけです。
そうすると、鬱々とした葛藤(つまり「若さゆえの混沌」)があること自体が逆に強みに変わり、それをキレイな文章に整えて、発信できるようになってきた。それは本当に素晴らしいことだと僕は思います。
受け取る側も、何が言いたいのか、読み取りやすいわけですからね。
昔みたいに「あー、若い子が書いた文章だな」って思わなくなったのは、本当にすごいことだと思います。
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で、だとすれば今の真の問題は、そうやってAIありきで出力されたものを、僕たちはお互いにどうやって受け取り合っていくのか。その受け取り方の節度やマナーの問題なのだと思います。
そしてそのための場やコミュニティの構築の仕方が、いちばん重要な問題になってくるのだろうなと。
ここでひとつ、非常に大きな反省があって、みなさんに謝りたいことは、僕は以前、このブログの中で「Wasei Salonの中だけではAIが決して使われていないと思い合えること、そこにクローズドの価値がある」と書いたことがあります。
でも、それは完全に間違っていた。今はもう、そうじゃないと思います。
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AIを使ってブログやつぶやきを書いてくれてもいいし、AIを使ったことを黙っていてくれても構わない。
AIが介在しない文章がある場所をつくるなんて、新しく若い世代が続々と社会に出てくる以上、それは不可能なんだろうなと悟りました。
AIはそれこそウィルスのように、どこまでも侵食をしてきて、特定のエリアをロックダウンなんてできるものじゃない。
だとしたら、本当に必要なことは、正しいソーシャルディスタンスの取り方だと思うんですよね。それはきっと「複雑なものを、複雑なまま受け取る態度」みたいなこと。
言い換えると、AIを使っていることを理由に、「どうせAIが書いた文章でしょ」と切り捨ててしまう態度ではなく、効率化された読みやすい文章だからといって「わかった気になる」ことでもない。
大事なのは、その文章の奥にある「人の気配」や「本音」をちゃんと感じ取ろうとする読み手側の姿勢なんだと思います。
その奥にあるものこそをひも解くようにして、お互いに理解しようと努める、その能動的な態度や姿勢のほう。
つまり、AIで包んで渡してくれたものの中に、相手の「真意」を探ることが大事なんだろうなあと。
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AIで包んだ建前だけをやり取りし合ったり、AIを使わずに本音だけをぶつけ合ったりすればいいというわけでもなく、AIという包装紙の中にあるお互いの素直な気持ちを見つけ出す。
喩えるなら、プレゼントを渡してくれたときに、そのプレゼントの中身だけで判断をするのではなく、そのプレゼントを探してくれたこと、これを私(たち)に差し出そうとしてくれた時間や動機に対して、しっかりと想いを馳せること。
そのエンパシー的な態度が、これからの社会ではめちゃくちゃ大事になってくるんだろうなと思うんですよね。
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そうやって受け取り合っていけば、互いの真意みたいなもの、たとえそれが「混沌のなかにある葛藤」だったとしても理解し合えるはずです。
そして、それを互いに理解し合おうというスタンス自体が、相手の中にある警戒心みたいなものも少しずつ解いていくことにもなり、お互いに少しずつ鎧を脱いでいく状態へともつながっていく。
その相互作用や循環が大事だってことなんでしょうね。
そのための新しい対話スタイルやコミュニケーションスタイルを探りながら、何がより良いコミュニケーションにつながっていくのかを、時代に合わせて手探りでゼロから模索していく必要があるんだと思います。
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このカルチャーギャップを味わえる空間やコミュニティに属することが、いま本当に大切になってきている。
で、それでいうと、Wasei Salonは50代以降の方も意外と多く参加してくれていて、50代と20代がこんなにもフラットな関係性を構築して、なおかつ継続的につながり続けて、深く対話が続いているコミュニティも、他にはなかなかないと思います。
ちょうど、この気づきをTwitterにもつぶやいてみたところ、Wasei Salonのメンバーでもあるオシロ・牟田口さんがこれに反応してくださって、以下のように書いてくれました。
コミュニティというとハードルが高そうですが、読書会(ブッククラブ)の開催がかなり多く、おじさん世代としても交流しやすいなと感じています。
本当にそうなんですよね。
Wasei Salonには、読書会があるからこそ、世代を超えた交流ができているなあという実感は強くあります。もし読書会がなければ、今のWasei Salonは間違いなく存在しなかった。
1冊の本を読み終わった者同士が集い、それについて対等に対話するということは、実はものすごく深い価値がありました。1冊の本の前において、人々は真の意味で対等であれるのだと。
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さて、今日の話をまとめると、AIの力を借りて(AIのせいにして)、ブログやオンライン上のテキストコミュニケーションで、自己開示を行うハードルが、一気に下がった。
そのなかで、お互いの存在をまずは認知し合い、読書会や対話会などのオンラインイベントを通して、少しずつお互いの素の部分も開示していくことができる。
さらに、リアルイベントで実際に出会い、互いの身体性も実感し合いながら、より仲が深まって、相手の良いところも悪いところも含めて、受容していく感覚がうまれていく。
この段階を経た形で、相手のことを理解していくという過程が、本当の意味でお互いのことを理解し合い、尊重し合うということにもつながっていくんだと思います。
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最後に、20代前半の学生や社会人のみなさん、もし”はたらく”の本質を考えてみたいなと思ったら、ぜひWasei Salonに参加してみてください。
多様な立場の大人たちがとても楽しそうに、なおかつ優しくお互いに脅かすことなく、真剣に対話をしています。
これからの生き方を考えるうえで、きっとあなたの役に立つはず。
そして、「このまま若い世代の価値観を理解できなくなってしまうのはまずい…」と直感的に感じている50代以降のみなさんにも、ぜひ参加してみて欲しい。
本当に自画自賛してしまうけれど、これからのAI時代を見据えたときに最適な空間だなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。