先週末、Wasei Salonの中で「【大人の職場見学】サイボウズ編」というリアルイベントが日本橋にあるサイボウズさんの本社で、開催されました。
https://wasei.salon/events/144362d7d0bb
企画してくださったのは、Wasei Salonメンバーでもあり、サイボウズさんの社員でもある、もんさんと藤村さん。
僕がサイボウズさんのオフィスに最後に訪れたのは、コロナ以前の2018年ごろ。つまり7年ぶりの訪問となりました。
オフィスの一部はリニューアルされ、拡張されている箇所もあり、まるで現代における“完成されたオフィス”を社会科見学させてもらっているような、本当に素晴らしい体験でした。
ーーー
また、見学のあとは、見学したメンバー全員と一緒にしっかりと対話する時間もありました。
その中で、サイボウズさんのAI導入の実情や、「社員1300人のうち2割ほどしかリアルオフィスに出社していない」という事実、そして「今まさにオフィスの在り方を、社内で再検討している最中である」という話など伺いました。
今日は、そんな一連の体験と対話を受けて、ひさしぶりに東京の一等地にあるオフィスに訪れ、オフィスという機能について考える時間が得たので、そこで個人的に考えたことを、このブログの中に書いてみたいなと思います。
ーーー
というのも、僕はオフィス内をゆっくりと見学をしながら、タイトルにある通り「AIによってこれからオフィスはどう変わるのか」をずっと考えてしまっていたから。
「この現代のオフィスの完成形が、これからはどう変化していくんだろう?」と、とても気になったんですよね。
この点きっと、これから僕らは間違いなく、AIに包まれるようになる。
今はまだ能動的に答えを求めないと何も答えてくれないAIだけれど、これからはいつの間にかAI包まれていたという、そんな「環境型のAI」に変化していくことは間違いないはずです。
社内に、空気のように広がっていて、太陽のように見守っていて、なおかつ動植物のようにロボットとして存在しているAIと共に働く場所が、リアルオフィスとなっていく。
ーーー
オフィスに入った瞬間から、その中にいるひとのすべてのスキャンが勝手にはじまるようになるんだと思います。
個人の状態(具体的には体調、集中度、感情の起伏など)がデータ化され、そのデータや数値が言葉以上の意味を持つようにもなる。
もちろん、似たような意味合いで、オフィスだけではなく、家も明らかに変わる。
家ではない公共空間としてのオフィスは、プライバシーなどの問題もあると思いつつ、オフィスとはそもそもそういう空間であり、ある程度は自らのプライバシーを引き渡すことが大前提となる公共空間になるのだと思います。
このあたりは現代の病院なんかともよく似ていますよね。
ーーー
で、もっと抽象的なイメージが許されるならば、映画版『風の谷のナウシカ』でオウムの金色の触手にナウシカが包まれるようなイメージです。
あとは、エヴァンゲリオンの中に出てくるLCLという液体を介したシンクロ率の話なんかにも似ている。
そんなふうに環境型AIから全身を撫でられたり、水中に入ったときと同じぐらいに密接にまとわりつかれる。
AIはそうやって僕らを包摂するものになり、それと同時に人間が集う意味や価値も大きく変わって、再定義されることも間違いない。
サイボウズさんのオフィスには、マジックミラー越しに社員が別室から覗き、ユーザーテストが行える会議室もありましたが、未来のオフィスでは、その“観察者”が人間ではなく、完全にAIになるのだろうなあと思いました。
ーーー
で、そんな未来がやってきたときに人々は、一体何を重視するようになるんだろう?と。
僕はそんなことばかり考えてしまいました。
この点、従来型の完成形のオフィスにおいて重要なことは、これまでは明らかに「生産性」だったはずなのです。
リアルオフィスに集うからこそ生まれてくるような意見を統合し、実行できる粒度に落とし込み、実際にそれらのトライアンドエラーを繰り返せること。
つまり、PDCAを競合他社よりもより早く回せること。
そのためのチームワークを最大限に発揮するための機能を持っていたものが、これまでのオフィスだったと思います。
ーーー
で、この点、過去に何度も書いてきたように、要約したりまとめたりすることは、AIが一番得意なことになる。
そのときに大事なことは、きっとこれまでとはまったく異なる”生産性”だと思うんですよね。
きっとそのひとつが、集うことで正直になれること。「混沌にとどまる勇気」を大切にし合うことだと思います。
イノベーションの多くは、予定調和ではない「混沌」の中から生まれてくる。
リアルオフィスは、そんな多様な価値観やアイディアがぶつかり合い、予測不可能な化学反応が起きたり膨らましたり、そんな「創発の場」としての役割を強めていくはずです。
ーーー
で、そうなると、当然のように言動の内容だけではなく、そのときの身体的な反応のほうが重要視されるわけです。
「正直な言動か否か」が、様々な数値やデータから明らかに手に取るようにわかる。
逆に言うと、リモートであれば、いくらでもそれが改ざんできる。
でも、環境型AIで身体がAIに完全に包まれて包囲されているときは、いつでもそれがすべてスキャンされて計測されることは間違いない。
集うことで、嘘偽りがないことに価値が置かれていくようになるはずで。
そうやって、僕らは生身で集い、現場で対話や議論をし、身体性を通したコミュニケーションを行うようになるんじゃないか。
ーーー
で、ここで話は少しそれるけれど、昨日のブログにも書いたけれど、AI時代は、これまで以上に「正直さ」が重要になってくるはずです。
この点、以前もご紹介した内田樹さんの新刊『知性について』という本の中で、内田さんは、どれほど不細工でも「正直に書く」ことを最優先している、ということについて語られていた。
少し本書から引用してみたいと思います。
体系的な記述ではなくて、ある言葉ひとつや、あるエピソードひとつから、連想したことをずるずると書いてゆくというものです。でも、この「そういえば・・」と思いついたアイディアの連鎖には、僕の限界や偏りが正直に反映しています。それをあとから補正して、僕が筋目の通った行論をしていたかのように書き直すことはしたくない。僕にとってたいせつなのは「正直に書く」ことだからです。「正直である」というのは「個別的である」ということです。
僕は、このような個別的言説を、AIが半自動的に統合し、行動や施策、プロジェクトに落とし込んでいくのだと思うんですよね。全員がある程度納得感を持てるような形で。
内田さんは、このあとに続いて「それが他のどんな人とも違う断片性であり、限界性である限り、その個別性は、集団的な学知に加算されて、知的な【コモン】の一部として共有され、活用され得るはずだ」と書かれていました。
AIによって、僕たちのそんな「断片的で不完全な個別性」が価値を持っていくからこそ、それを恥じずにお互いに受け入れ、正直に差し出す姿勢こそが、知の“共創”にとって不可欠になるような気がしています。
このあたりは、まだまだうまく言えなくて大変申し訳ないと思うのですが、本当に強くそう思います。
ーーー
で、このように考えてくると、意外と既存の「教会」や「神社仏閣」のような場所が、最終的にはオフィスみたいな場になるんじゃないか。
それはつまり、超越的な存在(神)が観ている場所になるのだから。
以前書いたブログの通り、僕らの行動やAIに対するプロンプトはすべて「祈り」に近くなる。
ーーー
つまり、「祈りと対話」が繰り返される場所がきっと、環境型AIと一番相性のいい空間になると思うんですよね。
たとえば、ストイックな会社は、生活禅が重視される道元がつくった永平寺のような。
もう少し行政チックになると、今も毎日大小さまざまな祭りが行われる伊勢神宮のような。
一方で、地域の中小企業となれば、もっと緩やかな開かれた地域の憩いの場としての教会のような場にもなる。
なんにせよ、一周まわって仕事や働くということが”まつりごと”に立ち返る感じがありそうだなあと思います。
そのための”儀式的な何か”のほうが重視されるようになる気がする。
ーーー
もちろん、これからまだまだ先の話だけれど、でもそんな未来は着実にやってくる。すでに現存している技術のちょっとした進化と、その組み合わせに過ぎないのだから。
あと、今日のお話のように「そんなことが起きるかもしれない」という僕らの予感が、既にコミュニケーションを根本から変えていくんだろうなあとも思います。
で、今その予感みたいなものを察知することが、ものすごく大事な気がしています。
実際にその現実が起こるかどうかは実はあまり関係がない。「予言の自己成就」的な現象が起きていれば、それは既に起きているとも言えてしまうわけですからね。
ーーー
だとすれば、僕らはそんな変化に備えて、淡々と準備をしたほうがいいんだろうなと思います。
お互いを脅かさずに敬意を持って、心がオープンになるような環境を構築し合い、人間の知性がいちばん活性化しやすいための、正直になれるための環境づくり、それに徹していく。
そして、リアルな空間に集ったときに、そんなことを素直に発露できる集団や共同体は、これからますます強くなっていくはずです。
今はなんだか漠然とそんなことを考えています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。